太田述正コラム#3804(2010.2.1)
<イギリス史落ち穂拾い>(2010.3.2公開)
1 始めに
 表記のとおり、イギリス史から、二つ話題を提供したいと思います。
2 レヴァント会社について
 まずは、ジェームス・マーザー(James Mather)の本 ‘Pashas: Traders and Travellers in the Islamic World’ の書評からです。
 「・・・レヴァント会社(Levant Company)(注1)は、イギリスのオスマン世界との貿易と外交の元締めであり、この2国間の奇妙な、しかし同時に極めてうまくいった関係について監督し、かつ基調を設定した。
 マーザーが示すように、17世紀末には、トルコとの貿易は、イギリスの海外との全商業活動の4分の1を占めていた。
 それは、イギリス人が初めて主要かつ明確な国家的存在感を非キリスト教環境において示したことを意味し、<その後にやってきた>何世紀かにわたる<大英>帝国時代の重要かつほとんど忘れ去られた前駆現象だった。・・・
 ジェームス<2世>時代の<イギリス人海外>旅行者の姿勢は、彼等のヴィクトリア朝時代の後継者達の傲慢な姿勢とは大違いだった。
 オスマントルコの中東においては、現地の協力者達の方ではなく、彼等こそが<現地に>適応しなければならなかったのだ。
 実際、この頃においては、<誰も>イギリスのことなど聞いたことがなかった。
 一人の牢獄に入れられたイギリス人は、オスマントルコ領エルサレムで、「トルコ人達は、イギリスの女王やイギリスという国について聞いたことなどないとにべもなく言ってのけた」、と記している。・・・
 ・・・どうしてレヴァント会社は、その若き同時代組織である東インド会社のように、帝国建設的、土地奪取的、かつ帝国的軍事的権力へと変貌を遂げなかったのだろうか。
 ・・・1630年代には、東インド会社の奥の院の47人の取締役中28人がレヴァント会社のメンバーでもあった<ことを考えれば、これは一層不思議に思えてくる>。
 著者は、それは、その機会がなかったというよりは、レヴァント会社が運営された保守的なやり方のせいだと考えている。
 この会社は、間違えるのならば、慎重さの方に間違えようとしたし、その兄弟たる東インド会社のように、軍事的冒険に乗り出した結果山のような経費を費消するというようなことを避けようと努めたのだと。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2010/jan/31/pashas-traders-islamic-world-james-mather
(1月31日アクセス) 
 (注1)1600年に設立されたイギリスの東インド会社(East India Company)
http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company
や1602年に設立されたオランダの東インド会社(Dutch East India Company。世界最初の株式会社)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_East_India_Company
が海外の特定の地域との貿易等を独占的に行うべく設立された最初の2つの国策会社だと思っていたら、イギリスで既に1581年にレヴァント会社が設立されていたのですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Levant_Company (太田)
3 不敬罪と言論の自由
 今度は、デイヴィッド・クレシー(David Cressy)の本、’Dangerous Talk: Scandalous, Seditious and Treasonable Speech in Pre-Modern England の書評からです。
 「・・・国王の死を想像することを禁じる法が1352年にエドワード3世によって制定されたが、この詳細な研究は、いかにその解釈がそれに続く何世紀かにおいて変動したかを示している。・・・
 <この法は、国王に対する>「裏切り者的想像、願望、欲望、そして意図<を抱いた者は、>・・・大逆罪を犯したものとし、つるされ、<半死の状態で内蔵と性器を>掻き出され、<首を切り落とされた上>四つ割きに処せられるものとする<と規定していた。>(注2)・・・
 (注2)この段落の<>内は、下掲に拠った。
http://www.phrases.org.uk/meanings/hanged-drawn-and-quartered.html (太田)
 国王達が脅かされていると感じると「より鋭くより危険な」諸法が通された。
 とりわけヘンリー8世の治世下では、「彼のローマ<法王>との関係断絶を擁護するための効力ある法律を施行された」し、メアリー・チューダーとエリザベス1世<の治世において>もそうされた。・・・
 18世紀には、この法の適用は緩やかになったが、<フランスで>ルイ16世がギロチンにかけられたことに伴う1790年代のパニックによって、誰でも大胆にも「国王なし」を望む発言を行った者は裁判所に引き立てられた。
 しかし、その頃までには、粗っぽい演説に対する絞首刑の時代は過ぎ去っており、晒し台に晒されるか罰金を科されるか投獄されるかが宣告されるようになっていた。
 次第に陪審員達は、被告が酩酊状態だったといった申し開きを受け入れることによって有罪の評決を回避するようになって行った。
 そして、テューダー朝のイギリスでは悪い言葉であった「言論の自由」が、次第に民主主義的権利と見られるようになって行ったのだ。・・・
 <そして、ついに、>「表現の自由の権利」が1998年の人権法(Human Rights Act)において謳われるに至ったが、小さな字で「国家安全保障、領域保全、あるいは公安、もしくは、無秩序と犯罪防止のため、<或いはまた>衛生と道徳、かつまた他者の権利の保護」の観点からの柔軟性が確保されている。・・・」
http://www.ft.com/cms/s/2/4666c766-0161-11df-8c54-00144feabdc0.html
(1月19日アクセス)
 「・・・1444年に<ある男が>国王を子供呼ばわりし、国王の人となりをけなし、ヘンリー6世が生まれていなかった方がイギリスにとっては良かったと言ったとして、<上記法に基づく刑の宣告を受けた。>
 そのほとんど1世紀の後の1535年<においても、・・・ある男が>ヘンリー8世を「異端者で盗人で売春夫」呼ばわりした上、真夏までには「彼の頭<をボールにして>でサッカーをする」ことを欲すると述べたとして、死刑に処せられた。
 <こうして、>ヘンリー8世の治世には、反逆的言葉を吐いたとして、何百人もの人々が捜査の対象となり、100人を超す人々が処刑された。
 しかし、チューダー朝のイギリスの末期には、醜聞的、煽動的、あるいは大逆的な言葉を吐いても死刑になることは一般に少なくなった。・・・
 チャールス1世の治世の頃には、法律家達と政治家達は、果たして言葉を吐いただけで大逆罪にあたるかどうかを議論するようになり、おおむねそうではあるまいということになった。・・・
 ・・・<そして、>イギリスでは、<1879年の文献に>「煽動的な言葉は、それが煽動的行為を伴わない場合は、通常罰せられることなく吐くことが認められる」<と記されるようになった。>
 国王に対する悪口をが、ある時代においては身の毛のよだつ処刑をもたらしたというのに、別の時代では肩をすくめられるだけで終わるなんてことがどうして起こったのだろうか。
 その答えは、しばしば英国の歴史で起きることだが、政治文化、憲法的政治、世論、そして法が変化したからだ。・・・
 1352年のエドワード3世の制定法は、19世紀まで効力を有していたが、国王の死を「企てたり想像したり」することを大逆罪であるとしており、裁判官の中には、言葉を吐いただけでこれに該当するとする者があった。
 ヘンリー8世の1534年の大逆法(Treason Act)は、国王を「異端、教会分離論者(schismatic)、僭主(tyrant)、非キリスト教徒(infidel)、簒奪者」呼ばわりすると死刑に処するものとしたが、この法は彼とともに死滅した。
 <ところが、>1627年の画期的な判決をもたらしたパイン裁判(Pyne’s Case)で、裁判官は、「言葉を吐いたことだけでは大逆罪とはならない」と判示するに至った。
 ただし、なお、公開の場での演説は犯罪的に煽動的であるとされることがあり、軽罪(misdemeanor)として処罰しうるものとされ続けた。
 チャールス2世の1661年の大逆法は、国王の死または廃位を「企み、想像し、発明し、考案し、意図する」「あらゆる印刷、筆記、講話、あるいは悪意があって教唆的な会話」に対し、再び死刑を科したが、これはほとんど適用されることがなかった。・・・
 <そしてついに、議会の設置した>法律改革委員会(Law Commissioners)は、1977年に、公序に係る諸法が十分<整備されているの>で、「煽動」罪は不要であると結論づけたのだ。・・・」
http://www.historytoday.com/MainArticle.aspx?m=33789&amid=30297910
(1月20日アクセス)
 イギリスには、憲法が存在せず、言論の自由も、こういう形で、世の中が平和になるにつれて、次第に確立して行ったということです。
 それにしても、言論(表現)の自由が憲法どころか、法律に規定されたのが1998年というのは驚きですね。
 これが、憲政の母国、イギリスです。
 何度も繰り返しますが、憲法を持たなければならない国は、自国の政治に信頼感を抱けない国なのです。
 幸いなことに、明治憲法も、日本国憲法も、私見によれば規範性を有しません。
 どちらも一度も改正されていないことだけでも、私見が裏付けられている、と考えています。
 つまり、日本には実質的な意味での憲法は存在しない、ということです。
 これは、イギリス人同様、日本人は自国の政治に信頼感を抱いているということであり、まことに幸せなことではないでしょうか。
 憲法のない世界で2つ目の独立国を復活させ、このような点においても世界の範例たるべく、日本は米国からの「独立」を果たそうではありませんか。