太田述正コラム#3890(2010.3.16)
<映画評論3:ミュンヘン(その2)>(2010.4.20公開)
 なお、『ミュンヘン』の中で、(モサド系の主人公達と提携して、)バラク(女装していた。後のイスラエル首相)とネタニヤフ(後のイスラエル首相の兄。後にエンテベ・ハイジャック事件で人質救出作戦のイスラエル軍コマンドの指揮をとり死亡)を含むイスラエル軍コマンドが、ベイルートでミュンヘン虐殺の首魁級のPLO要員3名を襲撃・殺害する場面が出てきますが、これはほぼ史実です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yonatan_Netanyahu
 さて、同じくこの映画の中で、主人公が、PLOに雇われた女性によってハニートラップを仕掛けられそうになった後に、彼女によって仲間を殺された彼は、復讐のために彼女を殺すという場面も出てきます。
 それらしきことが本当にあったのか、それともフィクションなのかは知りませんがね。
 実は、モサドは、以下のように、ハニートラップを使った世紀の大作戦を見事に成功させたことがあります。
 「・・・1986年にイスラエルのディモナ(Dimona)核施設で働いていたことがあるイスラエル人技術者のモルデカイ・ヴァヌヌ(Mordechai Vanunu)<(コラム#67)>が英国の複数の新聞にイスラエルが核爆弾を開発したとたれ込んだ。
 彼の指摘はイスラエルの核について曖昧にしておく公式政策とは全く相容れないものだったが、彼は自分の指摘を裏付ける何枚もの写真を持っていた。
 上記諸新聞の間の<ヴァヌヌ引き抜き>交渉の期間が激しく過ぎて行き、やがてロンドンのサンデー・タイムス紙が、自分の話を証明しようと企てていたヴァヌヌをロンドンの郊外の秘密の場所に匿うに至っていた。
 しかし、ヴァヌヌは冷静さを失って行った。
 彼は、同紙の担当者に、自分がロンドンの観光名所を訪れた時に若い女性に出会い、ローマでロマンティックな一週間を過ごすことを計画していると伝えた。
 同紙は、ヴァヌヌが英国を離れることを妨げる権利はないと感じた。
 <しかし、>それは大変な間違いだった。
 女性の友人とローマに到着するや否や、ヴァヌヌはモサド要員達によって捕らえられ、無理矢理引きずられ、イスラエル向けの船に乗せられて密出国させられた。
 そして彼は、イスラエルでその後、大逆罪で裁判にかけられた。
 ヴァヌヌは、18年間を牢獄で過ごしたが、そのうち11年間は独居房だった。
 2004年に釈放されると、彼はただちに当局の厳しい規制の下に置かれ、外国人と会うことも彼の経験について語ることも禁じられた。
 英国は、本件について一度も追求しようとはしなかった。
 ハニートラップを仕掛けた女性は、モサドの要員のチェリル・ベン・トヴ(Cheryl Ben Tov)、コードネーム「シンディ(Cindy)」だった。
 フロリダ州のオーランド(Orlando)生まれの彼女は、イスラエルの諜報機関の要員と結婚していた。
 この作戦の後、報復を防止するため、彼女は新しいアイデンティティーを与えられ、最終的にイスラエルを去り、米国に戻った。
 それにしても、彼女のヴァヌヌ事案における役割は枢要なものだった。
 というのも、モサドは、英国から彼を直接誘拐したら外交問題になるので、外国におびき出す必要があったからだ。
 これは大胆な企てだったが、本件の場合、成功したわけだ。・・・」
http://www.foreignpolicy.com/articles/2010/03/12/the_history_of_the_honey_trap?print=yes&hidecomments=yes&page=full
(3月14日アクセス)
 
 更に、『ミュンヘン』のテーマであるテロリストへの復讐・・史実では、それを命じた女性のゴルダ・メイヤ・イスラエル首相の意図は、将来同様のテロが再び発生するのを防止するためだったということになっていますが・・については、建国当時、既にそれが試みられたことがあるのです。
 「1947年5月6日、アレクサンデル・ルボヴィッツ(Alexander Rubowitz)は、エルサレムで車に押し込められた。
 彼は、ユダヤ国家をつくるために英国人達をパレスティナから追い出すことに身を捧げていたテロリスト集団<の一つ>であるスターン・ギャング(Stern Gang)<(英国がつけた渾名。本来の名称は、Lohamei HaHerut b’Yisrael=Lehi(上出))>のまだ10代<(16歳)>の活動家だった。
 この少年は、エルサレム–エリコ(Jericho)道路の近くのオリーブの茂みに連れて行かれ、尋問された後<、岩で頭を砕かれて>殺害された・・・。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2010/mar/07/major-farrans-hat-david-cesarani
(3月9日アクセス)
 「<その下手人は、大戦中、英SAS(Special Air Service。特殊作戦部隊)<(コラム#384、803)>の一員としてイタリア、フランス、ギリシャで大活躍したところの、当時のパレスティナ警察の副本部長であったロイ(Roy)・>ファラン(Farran)<という男だった。>
 戦争が終わって平和になると、ファランは困ったことになった。
 <戦後の>鬱と退屈の期間の後、<彼は軍に復帰し、>1945年10月にはパレスティナにやってきた。
 <彼は当初、別段反ユダヤ感情を抱いていたわけではなかったが、>パレスティナで血腥い1年間を過ごすと、[ユダヤ人]地下組織が英国の治安部隊に対して仕掛けていた戦争の性格に遺恨を募らせるに至った。
 <その後、一旦彼はパレスティナを後にするのだが、英軍当局が彼を同地に再派遣した。>
 その目的は、<治安悪化のため、英国人家族達や、不必要な英当局要員達をパレスティナから本国等に引き上げさせる状況になったことから、>テロリストに対して強く当たらせるためだった。・・・」
http://www.history.ac.uk/reviews/review/856
(3月13日アクセス)
 「<ユダヤ人テロリスト達の>一人が、今日の自殺ベルトの前駆たる「爆発する外套」を発明し・・・た。彼等は、危機を醸成することが自分達の大義に資すると信じており、より多くの非道を、最初はパレスティナで、次いで欧州でやってのけた。
 <例えば、>ローマの英国大使館は破壊された。・・・」
http://www.literaryreview.co.uk/pryce-jones_03_09.html
 
 「・・・<現地警察の、ファランがボスとなった>英治安部隊は、<ファラン自身を含め、>第二次世界大戦で勲章を沢山もらった英雄的兵士達によって構成されていた。
 彼等は、法と人権諸規約の外で行動し、陪審員と処刑執行人を兼ねていた。
 その結果、今度は穏健なユダヤ人達が英当局に諜報を提供することを拒否するようになり、<ユダヤ人の間で>広汎な反英連合が形成され、<ユダヤ人による>暴力がエスカレートした。・・・
 彼等は、SASの一員として、例えばフランスやギリシャで敵の前線の後方で<連合国>シンパの地域住民とともに作戦を遂行した様々な活動においては極めて成功を収めたけれど、パレスティナでの状況は全く異なっており、彼等が失敗することは最初から運命づけられていたのだ。・・・」
http://huss.exeter.ac.uk/history/exhistoria/Nick_Burkitt.pdf 
 「・・・<さて、ルボヴィッツ殺害の復讐のために、>スターン・ギャングのテロリスト達は、手紙爆弾を<形だけの軍法会議を経てお咎めなしで本国に帰国していた>ファランの家に送りつけ、ファランの弟がこの手紙を開封して殺された。・・・
 結局、ファランはカナダに移住し、そこで成功したジャーナリストとしての、そして政治家としての人生を送り、現地のコミュニティーにおける重鎮となって亡くなった。・・・」
http://www.literaryreview.co.uk/pryce-jones_03_09.html 上掲
(続く)