太田述正コラム#3724(2009.12.23)
<政治的宗教について(続)(その2)>(2010.5.5公開)
 「<ナショナリズムに言うところの民族(nation)>への帰属意識について言えば、<一般市民の>帰属意識は(彼等の大部分が生涯を送るところの、)もっと狭い地域に対するものである一方、最高レベルにおいては、貴族カーストの感覚に照らせば、こんな狭苦しい境界線に押し込められることには抵抗感があった。」(PP145)
 「<しかし、フランス革命はナショナリズムに向かって一直線だった。>
 ジロンド(Girond)党の一人が1791年にいわく、「ペテン師が心を奴隷化し人々を囚われ人にするために神と国王の名の下でやったことを、君たちは自由と愛郷(patrie)の名の下でやらなければならない」と。
 また、もう一人の革命家は1792年にこう問いかけた。
 「どうして、[僧侶達が]余りにもしばしば過ちと奴隷制の名の下にやったことを我々が真理と自由の名の下でやっちゃいけないんだ」と。」(PP145)
 「ドイツの宰相ビスマルク(Bismarck<。1815~98年)(コラム#2873)>は、カトリック教徒を、「黒いインターナショナル」として、、社会主義者達の「赤いインターナショナル」よりもほんのちょっとしか脅威ではないところの、ドイツ帝国の敵の一つとして列挙した。・・・
 ・・・フランスの左翼共和主義者のレオン・ガンベッタ(Leon Gambetta<。1838~82年。普仏戦争以降に活躍した政治家
http://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%A9on_Gambetta (太田)
>)<も、次のように>激白した。
 「カトリック教徒が愛国的であることは実に希だ」と。
 こんな感覚は、<その大部分がカトリック教徒であるところの、>アイルランドやポーランドではキチガイのように思えたことだろうが、ビスマルクににとっては満足の行くものであったことだろう。」(PP147)
 「地域によって産業化の度合いが著しくデコボコがあったことで、自由主義的プロテスタント達は、自分達を物質的かつ科学的進歩と同一視する一方で、カトリックを隔世遺伝的後進性と同一視した。
 これこそ、ドイツがポーランドに、英国がアイルランドに、そして何と、カトリック陣営の中でも、北イタリアの自由主義者達がイタリア南部(Mezzogiorno)に対してとった姿勢だったのだ。」(PP147)
 「(アングロサクソンのイギリス、そしてフランス、あるいはスペインのように)高度の文化と国家の形成が比較的早期に行われた諸国にあっては、高度に発達した民族意識が、近代の産業世界がいわゆるナショナリズムを通じた統合を求められるよりずっと以前に形成されていた。
 イギリスの民族的選民性(ethnic chosenness)の感覚は、8世紀の歴史家のビード(Bede<。673頃~735年>)<(コラム#74、2764)>とアルフレッド大王(Alfred< the Great。849~899年)(コラム#1501、1650、3077、3438、3442、3465)>の時代にまで遡ることができ、宗教改革の時にプロテスタントの形をとって再表面化した。」(PP148)
→そのイギリスも、英仏百年戦争に勝利していたならば、ブリテン島と欧州にまたがる帝国になっていたかもしれません(コラム#96、2055)。なお、この戦争に勝利したフランスは、その時点でフランス民族(nation)を形成したとは必ずしも言えません(コラム#2055、2057)。スペインについても、やや疑問がありますが、立ち入りません。(太田)
 「<ところが、欧州では、その全域で、>フランス語が畏敬の念を起こさせるほどのレベルで強い支持を受けていた。
 1743年には、フリードリッヒ<大>王(Frederick< the Great=Frederick?。1712~86年)(コラム#426、457、496、572、1362、3455)>がベルリン・アカデミーを、Academie Royale des Sciences et Belles-Lettres de Prusse(王立科学芸術院)として復活し、フランス人の数学者であるモーペルティウス(Mopertius)をその初代の院長に任命し、彼が亡くなった時にはフランス人の哲学者のダランベール(<Jean le Rond >d’Alembert<。1717~83年>)を後任にあてた。
 このアカデミーの論文集と出版物はフランス語で書かれた。」(PP151)
 「<また、>ゲーテ、カント、レッシング(<Gotthold Ephraim >Lessing<。1729~81年>)、シラー(<Johann Christoph Friedrich von >Schiller<。1759~1805年>)といった、18世紀末のドイツの偉大な著述家達や哲学者達は、コスモポリタンであってナショナリズムは俗悪で魅力的でないと思っていた。」(PP151)
 「<これに対して、>ハルダー(Herder<。1744~1803年)(コラム#3684)>は、民族の純正なる文化は、根無し草のコスモポリタン・エリートのものではなく、彼が集めたその土地土地に固有の民謡に反映されているところの、普通の人々のものである、と主張した。」(PP152)
 「<そこへ、ナポレオンが侵攻してきた。>
 ナポレオンの覇権は、ドイツの愛郷者達の間で様々な反応を引き起こした。
 保守的でキリスト教的で反啓蒙主義的な愛郷主義は、現状を回復しようとしたのに対し、反仏という点ではひけをとらなかったものの、改革主義者の愛郷主義は、ドイツの諸国家をフランスのやり方で近代化し、フランス人達が自分達でかくも成功裏に始めたところの流儀で人々を動員しようとした。」(PP154)
 「「民族集団(nationhood)」観念を<4>福音書中に見出すことができなかったとしても、旧約聖書を探し回ることで古代イスラエルに、当時のドイツ人たる選民のアナロジーを見出すことはできた。
 これは、既にその1000年も前にイギリス等でよく行われたことだ。」(PP157)
(続く)