太田述正コラム#3988(2010.5.4)
<選択の自由という重荷(その4)>(2010.6.5公開)
4 イエンガーの位置づけ
 「・・・20世紀半ばに認知革命が起こり、学者達、とりわけ心理学者達が脳とその限界の研究を始めると、選択に係るいくつもの論点が提起された。
 レオン・フェスティンガー(Leon Festinger<。1919~89年。ユダヤ系。米社会心理学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Leon_Festinger (太田)
>)は、認知的不協和(cognitive dissonance)(どうして我々は二つの相矛盾する観念を抱くことを不快に思うのか)の理論を創りだした。
 ハーバート・A・サイモン(Herbert A. Simon<。1916~2001年。ユダヤ系。米政治学・経済学・心理学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Simon (太田)
>)は、満足化(satisficing)(人間は最適よりも妥当な解決を探す)と限定合理性(bounded rationality)(我々のメンタルな計算は、情報、時間、そして認知能力の欠如といった様々な要素によって制約されているとの観念)、という諸概念を導入した。
 ジョージ・A・ミラー(George A. Miller<。1920年~。米心理学者
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Armitage_Miller (太田)
>)は、彼の1956年の有名な論文、「魔法の数字である7、足し引き2:我々が情報処理する能力におけるいくつかの限界」・・7個を超える情報を秤量するよう強いられた場合にいかに頭がよろめくかを示した・・によって思考の諸境界を更にはっきりさせることに資した。・・・
 これらの研究は、コントロールの欠如が人を弱らせること、従って、コントロールの提供、すなわち選択する力を強化すること<の必要性>を示唆した。
 その後、1970年代に心理学者のダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman<。1934年~。イスラエルの心理学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Kahneman (太田)
>)とエイモス・ツヴェルスキー(Amos Tversky<。1937~96年。イスラエルの認知的/数理的心理学者。1984年から死まで米国に定住
http://en.wikipedia.org/wiki/Amos_Tversky (太田)
)が一連の業績を生み出し始めた。
 それは、・・・「行動意思決定(behavioral decision making)の分野と定義された。」
 体系的誤りに導くところのバイアスを明らかにすることで、カーネマンとツヴェルスキーは、我々の人間の合理性に関する理解に革命を起こした。
 (2002年にカーネマンは、1996年に亡くなったツヴェルスキーと協力してあげた業績に対してノーベル経済学賞を授与された。)
 しかし、カーネマン、ツヴェルスキー、そして彼等の直接的な知的後継者達・・その多くは行動経済学者だ・・は、我々が行う選択に影響を及ぼす認知的諸欠陥に焦点をあててきたけれど、イエンガーの研究は、少し異なった諸問題、すなわち、選択することは常に良いことなのか、選択への欲求は普遍的なものなのか、そして、選択の限界とは何か、を取り上げてきた。
 一連の研究、とりわけ、宗教と楽観主義、401(K)退職貯蓄プランへの加入、そして、どのように選択を行うかの認識に関する研究において、イエンガーは選択研究<の領域>を広げた。
 イエンガーは、人間は選択するために生まれてきたと示唆する。
 しかし、人間は、意味を創造するためにも生まれてきたのだ。
 選択と意味とは相互にからみあっている。
 我々は、選択を我々のアイデンティティーを定義するために用いる。
 そして、我々の諸選択に関する決定は、広告に突き動かされた連想から始まり、個人的関係や哲学的諸コミットメントに至るまでのものに、我々が与える意味によって行われる。
 いくつかのものの意味については、我々は具体的に述べることができるが、その他のものの意味については言葉にすることができない。
 「科学は、我々がより巧みな選択者となることを手助けしてくれるけれど、その核心部分においては、選択はアート(art)であり続ける」とイエンガーは注意を喚起する。・・・」(B)
→例によってユダヤ系ばかりが並んでいるところに、唯一人、盲目の女性のインド系が気を吐いていますね。
 ユダヤ人もすごいけど、イエンガーはもっとすごいや。(太田)
4 論争
 「・・・<他の少なからざる研究者達は、>ジャム研究を含め、<イエンガーが行った>いくつもの実験を再現することを試みたが失敗した。・・・
 <また、>選択肢の数と被験者が選択を行う能力との間には相関関係の証拠をほとんど見出すことができなかった<とする実験結果が、>消費者研究学会機関誌(Journal of Consumer Research)に掲載されようとしている。・・・」(d)
5 終わりに
 イエンガーが、肝腎な点についての論争に最終的に勝利を収めることを祈っています。
 いずれにせよ、私としては、イエンガーが、もっと文化や文明が選択に及ぼす影響についての研究を掘り下げて欲しいと思っています。
 自由主義や自由民主主義は、政治面で個人に最大限の選択の自由を与えますが、そのような社会では、自由主義や自由民主主義を否定する選択は通常禁じられるのはもとより、それ以外についても広汎な選択禁止事項が設けられるのが通常です。
 憲法とは、いわば、このような選択禁止事項を列挙した、改正が困難な根本法であると言ってもよいでしょう。
 イエンガーの研究成果を踏まえれば、憲法を制定するのは、その社会の構成員の選択の幅を狭めることで、彼等が思い悩み、不幸になることを回避するためだ、と言えそうですね。
 そう考えると、英国には憲法がなく、日本の場合は憲法に私見では規範性がないということが、いかに異例なことかが分かろうというものです。
 それにもかかわらず、両国民が政治面で不幸のどん底に陥っていないのは、昔からそれぞれの政府のパーフォーマンスが相対的に高く、政府・・現代の代議制の下においては国会議員・・に政治上の意思決定を安心して委ねることができるからでしょう。
 遺憾ながら、戦後の日本においては、吉田ドクトリンの下、米国を「信頼」し、米国の属国になることによって、日本政府の権限を大幅に狭めるという方法を追加的とることで、日本国民は、政治に関する選択の自由という重荷から二重に逃れているわけです。
 当然のことながら、他国たる米国が自国のように日本のことを親身になって考えてくれるわけがなく、おまけに米国政府は、戦前も、少しはマシになったとはいえ現在においても、戦前の日本政府に比べれば、その判断能力において格段に見劣りする存在です。
 だから、日本は米国から「独立」しなければならない、ということです。
 ただし、その場合、英国並みに憲法なし(憲法に規範性を求めず)で行くことに耐えられるのか、それとも憲法を持つ(憲法に規範性を与える)ことでフツーの国になることで甘んじるのか、日本国民は悩ましい決定をしなければならないでしょうね。
(完)