太田述正コラム#4040(2010.5.30)
<「白人」について(その2)>(2010.6.30公開)
 (2)米国における「白人」史
 「・・・「真の米国人」という観念を生みだしたアングロサクソンの遺産(heritage)の中心性は、米国における移民の何波にもわたる到来を生き抜いた。・・・」(B)
 「何人かの米国の偉大なる英雄達、とりわけトーマス・ジェファーソンとラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson)は、ブルーメンソールの影響を受けたが、白人の優位(superiority)の諸範疇のレッテルを貼り替えた。
 彼等は、<アングロ>サクソンを彼等の理想(ideal)とし、米国人はイギリス人・・これに後になってゲルマン人(Germans)が加わった・・の直接的かつ純粋な(unalloyed)子孫であると想像した。
 一般論として言えば、人種的優位性の欧米におけるレッテルは、カフカス人→<アングロ>サクソン→テュートン人(Teutonic)→北欧人(Nordic)→アーリア人(Aryan)→白人/イギリス人(white/Anglo)と動いた。・・・
 ・・・<米国では、>19世紀末から1930年代にかけて優生「科学」が通説となった。
 優生学は、少なくとも30の州で表見的に精神が薄弱であったり遺伝性の犯罪者であったりした者に対する強制断種を認めさせる法律の制定をもたらした。
 ペインターは、1968年までの間に、本人の意に反して推計で65,000人が断種されたとする。・・・
 知力と美のランク付けが、20世紀初頭の米国においてどんどん増えたところの、反カトリシズムと反ユダヤ主義を支えた。
 どちらの偏見も、非プロテスタント諸集団を人種主義<の対象>化した。・・・
 同じ時期に、アナーキズム的信条や社会主義的諸信条も、人種的劣位(inferiority)の兆候とされた。
 20世紀初頭の過激派(radicals)に移民やユダヤ系が多くいたことが上述したこと(premise)を強化した。
 <アナーキズム的信条や社会主義的諸信条といったものは非白人的であるとして、>異議申し立て的諸観念は貶められたが、その一方で、白人的であることはイデオロギー的敬意が払われるべきものの目印(marker)であるとされたのだ。・・・」(C)
 「・・・米国社会は、定期的にその白人の概念を拡大してきた。
 例えば、アイルランド系は、最初は<白人から>除外(reject)されていたが、後に受け入れられた。
 アジア系米国人は、20世紀末に白人として受け入れられるに至ったと彼女は主張する。
 「白人であること」は、生物学とは何の関係もないのであって、全面的に、階級、経済権力、そして文化的諸特権へのアクセス、と関係しているのだ。・・・
 ・・・1930年代から1968年までの間に65,000人の米国人がその意思に反して断種されたことは、人種的純粋性と「<人種的>退化(degeneracy)」という<二つの>観念によるものだ。
 法執行官(Law enforcement)と福祉関係の役人が協力して各州の女性に犯罪者であるとか精神的に「薄弱」であるとかその双方であるといったレッテルを貼って不妊(断種)政策を実行した。・・・
 彼女は、例えば、「次々に非白人のミス米国となったジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez)とビヨンセ・ノウルズ(Beyonce Knowles)」が、何世紀にもわたったところの、支配的文化たる古の白い肌と美との結びつけを根本的に変更せしめたと記す。
 当然のことながら、彼女は、バラク・オバマの選出は、<米国における>人種的諸構造(construction)の歴史における決定的瞬間であったと記す。
 残念ながら、ペインターは、<米国における>この40年間の<このような>変化が意味するところが何であるかという修辞的疑問にほとんど答えてくれていない。
 彼女<の本を読むと>、我々が目撃しつつあることが、白人の概念の再度の拡大に過ぎないのであって、政治的スペクトラムの両極の幾ばくかが唱えているような米国のポスト人種社会入り、ということではない可能性が呼び起こされる。・・・」(D)
4 終わりに
 最後のDの書評子の指摘は重要です。
 それは、白人の概念、つまりはアングロサクソンの概念、の拡大によって、米国人全体が、今や、自分達が世界の中において、例外的存在であって優位にあるという思い込みを共有するに至ったのではないか、という鋭い指摘であり、米国が人種主義を克服しつつある、と申し上げてきた私としても、この考えを再考せざるをえないのではないか、と思うに至りました。
 もしこの書評子の指摘が正しいとすれば、米国は、依然人種主義の国であって、そのアングロサクソンと欧州とのキメラ性は、この点においても基本的に変化がない、ということになります。 
(完)