太田述正コラム#3898(2010.3.20)
<科学と自由民主主義(その3)>(2010.7.11公開)
 (4)科学のもたらしたもの
 「・・・健康面では、<人間の>生誕時の平均寿命は、1800年には30歳だった。
 1800年に生まれた赤ちゃんは、31歳の誕生日まで生きる確率が50対50だったということだ。
 <それが、>2010年には、世界の人類全体で67歳になった。
 平均寿命は、わずか2世紀の間に2倍以上になったわけだ。
 同様の期間に、世界の食糧生産も増大した。
 1900年当時に、1人の人間を食わせるために1年間働かなければならなかった農地の広さでもって、世界にわたって人口が増えてきているけれど、今では、10人の人間を1.5日間働くだけで食わせることができる。
 富についても同様の図柄だ。
 世界の一人当たりGDPは、1800年には年700ドル前後だった。・・・
 成長率は1%未満だった。
 それが、2008年には、世界の一人当たりGDPは6,640ドルになった。
 そして現在では、不況にもかかわらず、一人当たり約7,000ドルになっている。・・・
 1800年には、一般的に言って、世界に恐らくは三つ自由民主主義国しかなかった。
 ただし、女性がこの時点では投票権がなかったので普通選挙云々は無視した上での話だ。
 1850年にはこれが約5カ国になった。
 1900年には、まだ普通選挙にはなっていなかったが、約13カ国だ。
 わずかなものではないか。
 <それが、>1950年には自由民主主義国は世界で22になった。
 今年は89カ国だ。
 <今や、>世界の全人類の46%は現在自由民主主義国に住んでいる。・・・
 
 英国奴隷貿易廃止協会(The Society for the Abolition of the British Slave Trade)がロンドンで創設されたのは1787年だった。
 それから1世紀経たない間に、アフリカの奴隷貿易は終わった。・・・
 中共が、仮に10年経って主要な科学大国になっていて、まだ共産党一党支配が続いておれば、この本での私のテーゼは間違っていたということになろう。・・・
 いまだかつて、全体主義国家が民主主義国家よりも効率的であったことはない<からだ。>・・・」(E)
 (5)アラブ「科学」
 「・・・アラブの歴史において存在したのは宮廷科学であり、支那とインドでのそれと同じものだ。
 いくつかの宮廷が十分に絢爛たるものであった場合には、これらの宮廷は多数の学者を支えた。
 これらの学者のうちの幾ばくかは科学のように見えるものをやった。
 彼等は、天宮図を描くために星々の動きの軌跡を記録したし、薬学に関連した幾ばくかの化学をやったし、幾ばくかの数学もやった。
 アラブの数学は美しいものだったし美しいものだ。
 「代数(algebra)」という言葉はアラブの言葉だ。
 星々の多くの名前はアラブ<が名付けた>。
 だから<、そこに科学があった>という印象を得やすい。
 だからこそ、私は、科学を明確に社会的制度であると定義することが重要だと考えるのだ。
 <アラブで>科学に係る会議が何度か開催されたといったことはない。
 学術雑誌(scientific journal)もなかった。
 レフリー・システムもなかった。
 科学者を訓練するシステムもなかった。
 
 我々が科学と呼ぶものは、歴史において、ごく最近まで存在したことがなかったのだ。
 私は、そう理解する方が真に明解であると考えるのであって、歴史を遡って古典ギリシャにちょっとばかしの民主主義とちょっとばかしの科学があったなどと考えてはならないのだ。
 同様、イスラム世界を眺めやり、<科学の>恩寵の時代から<その後>堕ちてしまったなどと考えてはならないのだ。
 イスラム世界は、科学的であったことも民主主義的であったことも一度もないのだ。・・・」(E)
 (6)海洋国家と自由民主主義
 「・・・民主主義は、大方、商業的企業(commercial enterprise)と海軍及び海上の優位(naval and maritime supremacy)に由来する<という説がある>。
 <それに対し、>内陸に立脚する(land-based)フランスのような大国にとっては、成功とは領域的拡大と属国の創造とこれら属国からの略奪<を意味した、というのだ>。・・・
 しかし、このようなテーゼについては、一つの欠陥が思い浮かぶ。
 <海洋国家の範疇に入る>オランダの商社のような、インド等に拠点を確立した初期の商社は、政府公認の独占企業体であり、これらの商社は、次第により多くの政府公的保護を求めるようになって行った。
 これらの商社は、本来的に自分達の政府によって保険をかけられるよう求め続けた<のであることからすれば、海洋国家が民主主義をもたらした、とは必ずしも言えないように私は思う>。・・・」(E)
3 終わりに
 随分以前、(コラム#46で、)私が「近代科学はイギリスに生まれたと考えています。しかも、ギリシャ文明が存在しなかったとしても、その上、欧州大陸が存在しなかったとしても、早晩、近代科学はイギリスに生まれたであろうとさえ考えています。 近代科学は、イギリスのコモンロー的自由の精神に育まれた経験論的伝統の中から生まれました。」と記したことと完全に平仄のあったことをフェリスは言っていますね。
 フェリスは、ほんのちょっと申し訳程度に欧州の近代科学にも触れていることはともかくとして、米国のお国自慢をしているところはいただけませんが・・。
 私のアングロサクソン論もかなり目鼻が整ってきました。
 「日本「独立」論」に続いて「アングロサクソン論」も上梓できる日が来るといいのですが・・。
(完)