太田述正コラム#4232(2010.9.3)
<性差は自然なものかつくられたものか(その2)>(2010.10.3公開))
 (2)性差はつくられたもの
 「・・・両性間には基本的なふるまい上の差があるけれど、これらの差は年を経るに従って増大するということを銘記すべきだ。
 これは、我々の子供達の知的諸傾向(bias)が、我々の性分化的(gendered)文化によって誇張され強化されるからなのだ。・・・
 ・・・少年達が改善された空間<把握>能力を発達させるのは、生来の優越によるのではなく、彼等が、とったり投げたりすることにおける専門的識能が求められるスポーツにおいて強いことを期待され励まされるからだ。
 同様に、少女達はより感情的で饒舌であることが予想されているがゆえに、彼女達の言語能力が先生方や両親達によって強調される。・・・
 ・・・小さい子供達の言語発達のわずか3%しか性に起因していない<というのに>。・・・」(A)
 「・・・2つの問題がある、とファイン博士は言う。
 第一に、様々な研究によっても、新生児の脳の両半球に差は発見されていないことだ。
 女性の方が大きいとされる脳梁についても<本当にそうなのかどうか、>議論がある。
 しかし、仮にこの大きさの差が事実存在するとしても・・実際大型のネズミでは差は存在する・・「脳<の差>からふるまい<の差>への因果関係を立証することは容易ではない、と彼女は言う。
 仮に脳に性差が存在するとしても、「それが頭の<働きの>差に実際いかなる意味を持つのか?」と。
 バロン=コーエン(Baron-Cohen)博士は、この理論を前提にして、テストステロンの低い水準が女性に共感(empathy)の「E型」の脳をもたらし、中位の水準の分泌量(yield)は均衡のとれた脳をもたらし、高い水準は男性に体系化的(systemizing)な「S型」の脳をもたらす、と示唆した。
 中位の水準<の分泌量>は、少女達の幾ばくかが体系化的であって少年達の幾ばくかが共感的であることを説明する、と。
 バロン=コーエン博士の実験室で行われた、両親による性差の無意識のうちの教え込みが行われる前の、生後1日半の乳児達に関する研究がある。
 この研究を行った大学院生の1人・・・は、動くオモチャ(mobile)を見せてから、彼女自身の顔を乳児達に見せた。
 その結果、生まれたばかりの男の子達は動くオモチャの方を、そして女の子達は顔の方をより長く見つめたことが示された。
 ファイン博士は、とりわけ<この研究の>設計上の諸欠陥・・<上記大学院生>がこの赤ん坊達の幾人かの性を知っていたという事実・・に言及することで、この研究をぶち壊す。
 この赤ん坊達が見つめていたのは彼女の顔であり、彼女が動くオモチャを持ち上げていたのだから、彼女は、「不注意にも、男の子達に対しては、動くオモチャをより多く動かしたし、女の子達に対しては、より直接的に、或いはより大きな目をして見つめたかもしれない」とファイン博士は言う。
 もちろん、この研究を、これらの欠陥を除去して再度行うことは可能だ。
 そして、同じ結果が出るかもしれない。
 しかし、ファイン博士は問いかける。
 「新しく生まれた子供達が何を見つめることを好むかが、将来の能力や関心を探るための・・それがどれほど汚れたものであれ・・一種の窓たりうる、とどうして考えることができるのか」と。
 この研究を総括して、彼女は、「存在しない脳梁構造の性差によって調停されるところの、存在しない言語の脳半球の左右分化が、存在しない言語能力の背差を説明する、と広く信じられている」と記す。
 これらすべてを踏まえると、結論は、そんな<思い込み>は神経性差主義(neurosexism)とでも呼ばれるべき代物だということだ・・・と。・・・」(D)
3 終わりに
 ボーボワールは、『第二の性』(コラム#3965)の中で、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と主張した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E3%81%AE%E6%80%A7
わけですが、ファインの主張が正しければ、ボーボワールは正しかったということになるわけです。
 そして、もしそうであれば、私自身、日本における男女共同参画社会、男女平等社会の実現を強く訴えてきたにもかかわらず、例えばコラム#4039におけるように、性差を強調するとともに、いささか女性を貶めるような記述を行ってきたことに反省を迫られることになります。
 それはそれとして、ジェンダー論の分野でも、学問は日進月歩だな、とつくづく思いますね。
(完)