太田述正コラム#4300(2010.10.7)
<映画評論14:エリザベス1世 ~愛と陰謀の王宮~(その2)>(2010.11.7公開)
・レスター伯1世:著名な3名の家庭教師から教育を受ける。諸言語の習得、作文、及び数学において傑出していたという。(J)
・ウィリアム・セシル:ケンブリッジ大学卒業(?)。引き続き法律学校(Gray’s Inn)で法学教育を受ける。(G)
・フランシス・ウォルシンガム:ケンブリッジ大学に在籍(貴族の子弟にありがちのことだったが卒業はせず)。そして法律学校(Gray’s Inn)で法学教育を受ける。その後、イタリアのパドヴァ(Padua)大学でも法律の勉強を行う。下院議員となる。(F)
・レスター伯2世:ケンブリッジ大学卒業(?)。(I)
・ロバート・セシル:ケンブリッジ大学卒業(?)。(A)
・エドワード・コーク:ケンブリッジ大学に在籍。引き続き法律学校(Inner Temple)で教育を受ける。下院議員となる。(H)
・フランシス・ベーコン:ケンブリッジ大学卒業(?)。その間も、将来のカンタベリー大司教を家庭教師とする。エリザベスはベーコンに同大学で出会った時から、既に彼の知性に注目していた。引き続き法律学校(Gray’s Inn)で法学教育を受ける。(D)
 当時は、現在よりも若い年齢で大学に在籍したようですが、廷臣達の16世紀時点でのこの高学歴ぶりには驚嘆するほかありません。
 その多くが大学に行っただけでなく、その後も、高等教育・・その大部分は法学・・を受けていたのですから・・。
 その多くが貴族の子弟でありながら、下院議員の経歴を有する者も散見されます。
 法学教育といい、下院議員といい、当時のイギリスの自由民主主義志向性がうかがえます。
 (どうでもいいけど、オックスフォード大学が全く登場しないのは不思議です。)
 (3)政府諜報機能の充実
 「・・・対諜報の分野で、ウォルシンガムは、エリザベス1世を王位から引きずりおろし、イギリスをカトリック教国に復帰させ、スコットランド人の女王メアリーを<イギリス>王位に就けようとする<2度にわたる>陰謀を未然に露見させた黒幕だった。・・・
 <2度目の陰謀である>バビントン陰謀(Babington plot<。カトリック教徒のバビントン卿(Sir Anthony Babington。1561~1586年)を首謀者とする陰謀
http://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot (太田)
>)の露見については、異例なほど詳細が資料に残っており、恐るべき対諜報が行われたことが分かるが、そのために、ウォルシンガムの個人秘書達が直接監視にあたる等、エリザベス朝政府の警備資源が総動員された。
 その結果、メアリーは1587年に処刑されるが、ウォルシンガムは権力を掌握する以前からそのために働いてきたのだった。
 彼は、メアリーの裁判に積極的に関わった。
 <彼は、スコットランド国王の母親でイギリス王位継承権を持つ従姉妹を処刑することへのエリザベスの躊躇を押し切り、不興を買うことを厭わなかった。>・・・
 <彼は、積極的かつ大胆な対外政策をとることも躊躇しなかった。
 ドレイク(Drake)<(コラム#4282)>にスペインのハディズ(Cadiz)に海上から殴り込みをかけさせ、スペインの兵站基地を大混乱におとし入れたりもした。>・・・
 対外諜報においては、ウォルシンガムの(公開・秘密情報を集める)「諜報者達(intelligencers)」のネットワークの全貌は永久に分からないが、それが相当なものであったことは間違いない。・・・
 暗号で書かれた手紙の解読、インチキ文書の作成、分からないような封印の破却と修復の達人であった暗号家のトーマス・フェリップス(Thomas Phelippes<。1556~1625年
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Phelippes (太田)
>)<を活用したのもウォルシンガムだ。>・・・
 エリザベスが、その統治の中心的期間において頼りにした補佐官として、ウォルシンガムは何年にもわたってこの女王から巨額のカネを受け取った。
 しかし、彼は、女王のため、そしてプロテスタントの大義のため、湯水のように自分の資産を費やした。
 エリザベスはこのことを知っており、それじゃおカネが貯まるわけがないと警告し、彼が全く利己心がないことを嘆いた。・・・」(F)
 まさに、官僚はこうじゃなくっちゃいけません。
 ウォルシンガムのように、自分の個人資産まで仕事のために費消しろとまでは言いませんが・・。
 それにしても、諜報を国家における最重要部門であると考えたウォルシンガム、そしてそれを嘉したエリザベスは、どちらも偉大でした。
 1590年にウォルシンガムが亡くなり、彼と入れ替わりに国務秘書になったロバート・セシルは、エセックス伯2世と角突き合わせることになるのですが、後者のアイルランド叛乱における不行跡のおかげで、ようやく名実ともにエリザベスの最も有力な廷臣となります。
 その後、彼は、自身が画策してエリザベスの後のイギリス国王に就任させることに成功したところの、ジェームス1世の下で、長年にわたり、諜報担当でもある最有力な廷臣として活躍することになるのです。(A)
3 終わりにに代えて
 エリザベスの時代においては、依然として、寵臣を愛でたりするところの、生身の国王がイギリスの内政及び対外政策の名実共に主体であったわけですが、国王に対する廷臣達による補佐機構が、上述したように整備されて行き、場合によっては国王の意思を曲げさせてまで国益の追求を確保するようになったことで、イギリス国内に支持基盤のなかったスチュアート朝のジェームス1世の治世において、国王の国家機関化が顕在化することになります。
 ジェームス1世が、望めば自ら裁判を行うことができると言い出した時、エドワード・コークが、「裁判は自然理性によってではなく、人工的な理性と法についての判断によって決せられるべきであり、法に係る活動を行うためには長年の勉強と経験を要するのであって、それなくしては、人は法を知っている域に達することはできない」と諭し、諦めさせたという逸話が残っています。(H)
 そして、国王の国家機関化と平行して、イギリスは、世界覇権国家への道を着実に歩み始めるのです。
 まさに、このようにイギリス史のみならず、世界史にとっても極めて重要なエリザベスの治世を、映画の『エリザベス』『エリザベス ゴールデン・エイジ』やTVシリーズの『エリザベス1世 ~愛と陰謀の王宮~』(前編・後編)を鑑賞して、その中で展開される人間ドラマを通じて追体験することができるなんて、我々は何と幸せなことでしょうか。
(完)