太田述正コラム#4156(2010.7.27)
<改めて朝鮮戦争について(その2)>(2010.11.30公開)
 (2)米軍が朝鮮において行った残虐行為
 「・・・<1950年の8月から、米軍が後方地域におけるゲリラに悩まされるようになると、<米軍の>操縦士達は、町や村を焼くようにとの命令を受け始めた。>・・・
 操縦士達は、一般住民にあたらないよう、目視で標的に爆弾を投下するように言われていたが、彼等はひっきりなしにレーダーを使って<非目視で>主要人口密集地を爆撃したし、主要目標に投下できなかった時は二次的諸目標に大量のナパーム弾を投棄した。・・・
 ・・・一般住民は爆撃編隊が接近するのをビラで警告されたが、操縦士達は全員、これでは<告知として>効果がないことを知っていた。・・・
 中共軍が参戦すると航空作戦はただちにエスカレートされた。
 1950年11月から、ダグラス・マッカーサー将軍は、何千平方マイルに及ぶ北朝鮮の領域において、空中から「工作物、工場、都市、そして村」を空中から破壊することによって、前線と中共国境との間に荒廃地帯を設けるように命じた。・・・
 ・・・12月14日と15日、米空軍は平壌を700発の500ポンド爆弾で攻撃した。
 ムスタング戦闘機群からナパーム弾が175トンの遅延信管付施設破壊爆弾(delayed-fuse demolition bomb)とともに投下されたが、後者は落下した時点では爆発せず、ナパーム弾が起こした火災で死亡した人間を回収しようと人々がした時に爆発した。・・・
 戦争が勃発してからちょうど2週間経った1950年7月9日に、これは記憶にとどめておく価値があるが、マッカーサーは、リッジウェーに、米統合参謀本部が「マッカーサーに原爆を使わせるかどうかを検討する」よう促す熱いメッセージを送った。・・・
 ・・・大量の中共部隊群が参戦したのは1950年10月11月だった<から、これはそれよりずっと以前の話だ。>・・・
 死後公刊されたインタビューの中で、マッカーサーは、自分はこの戦争に10日間で勝利する計画を持っていたと語っている。
 「私は30何個かの原爆を投下させただろう…。満州の首根っこ一帯に・・」と。その上で、鴨緑江(Yalu)<地帯>に中国国民党の部隊群を投入しただろう。そして、「我々の背後に、日本海から黄海にかけて、コバルト放射能ベルトを設けただろう…。それは、60年から120年効力を失わない。そうすれば、少なくとも60年間は北方から朝鮮への陸上侵攻はありえなくなっていたことだろう」と。
 彼は、ロシアはこの極端な戦略について手も足も出せなかったであろうことを確信していた。「私の計画は、何でもないこと(cinch)だった」と。・・・
 コバルト60はラジウムよりも放射能が320倍ある。
 <だから、>1個の400トンのコバルト水爆でもって、・・・地球上の生命を根絶やしにできた<勘定だ>。・・・
 リッジウェーはコバルト爆弾についてこそ何も言っていないが、彼は、朝鮮における米軍司令官としてマッカーサーに代わった後の1951年5月、今度は38個の原爆<の使用>を求めている。
 この求めは認められなかった。
 米国が原爆使用に最も近づいたのは、トルーマンがマッカーサーを解任した1951年4月だった。
 この挿話に係ることの多くは依然秘にされているが、今やトルーマンがマッカーサーを解任したのは、彼の繰り返しの不服従のせいではなく、米国政府が核兵器使用を決定した時に信頼できる司令官がその場に居合わせることをトルーマンが欲したからであったことがはっきりしている。・・・
 3月の終わりには、・・・沖縄の嘉手納空軍基地の原爆搭載施設群(atomic bomb loading pits)が再び運用され始めたという報道がなされた。
 <実際、>原爆は、そこに組み立てられないまま運ばれ、この基地で組み立てられていたのだ。
 ただし、最重要な原爆部分を除いて・・。」(C)
→朝鮮戦争の時、原爆を陸上で使う寸前まで米国は行っていたのですから、必要があれば、洋上では躊躇なく使用したでしょう。
 かつてのソ連にせよ、現在の中共にせよ、日本列島に上陸作戦を敢行しようなど、夢にも考えないはずだ、と思われるでしょう。つまり、戦後、日本はその領域に侵攻を受ける懼れはなくなった、ということです。なお、このことは、台湾にもあてはまります。(太田)
 (3)追補
 本日、この本の新たな書評↓を見つけたので、そこからも引用しておきましょう。
D:http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703294904575385480527598638.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
(7月27日アクセス)
 「・・・1940年代末に韓国の民衆が、李承晩、及び彼の米国が後ろ盾となった政府に対して蜂起した時、それは残虐に鎮圧された。・・・
 韓国政府による屠殺は広汎で無差別的だった。
 米国は、この殺害行為を知っていたが、見て見ぬふりをした。
 ニューヨークタイムスの・・・記者は、韓国の多くは「恐怖の雲…によって暗くなった」と書いたが、そんなことを書いたのはほとんど彼だけだったとカミングス氏は言う。・・・
 ・・・「ナパームの大海」が朝鮮で静かに、或いは気づかれることなく投下され」ていたというのに、ベトナムの米軍にナパーム弾を供給した廉で1960年代にダウ・ケミカル社が非難されたのは一体どうしてなのだろうか。
 そして、<朝鮮戦争時の米軍による>虐殺を<米国の>主要な報道機関が「発見」するのに半世紀かかったのは一体どうしてなのだろうか?
 これは、1999年9月30日版のニューヨークタイムスが、AP通信による1950年7月の韓国の小さなムラでの虐殺の話を載せたことを指している。
 この記事は、米軍兵士達による一般住民への機関銃射撃を覚えている韓国人達の証言を引用していた。
 それには、これら兵士達のうちの一人の告白も含まれていた。
 彼は、彼が目撃し実行したことに依然怯えていた。
 カミングス氏は、この話が米国紙に出るのがかくも遅れたのは一体どうしてなのかと問いかける。・・・」(D)
→その答えは簡単です。ベトナム戦争の頃には米国が人種主義を克服し始めていたからです。つまり、1950年代には朝鮮人は獣視されていたけれど、1960年代にはベトナム人は人間の端くれ視され始めていた、ということです。(太田)
(続く)