太田述正コラム#4362(2010.11.7)
<映画評論16:スミス都へ行く/エビータ(その3)>(2010.12.7公開)
 (3)ペロニズム
 このあたりで、ペロニズム(Peronism=Peronismo(西)≒Justicialism=Justicialismo(西))について解説しておきましょう。
 それは、アルゼンチンにおける、元大統領のホアン・ペロンと、その2番目の妻で「アルゼンチン国民の精神的指導者(Spiritual Leader of the Nation of Argentina)」という称号を授与されたところの、エヴァ・ベロン、に係る諸政策に立脚した政治運動のことであり、次の4点を基本としています。
 一、専制的傾向を持った中央集権的政府
 二、外国による干渉の排除
 三、社会主義でも資本主義でもない、コーポラティズム(注1)的やり方で両方の要素
  を取り入れた第三の道
 四、ナショナリズムと社会民主主義の組み合わせ
 (注1)「<法王>レオ(Leo)13世(1810~1903年。法王:1878~1903年)は、・・・国家主義的な政治的/世俗的宗教であるナショナリズムや(いまだ出現してはいなかったが)ファシズム、及び反国家主義を標榜する(ものの結局は国家主義に堕してしまう)政治的・世俗的宗教である共産主義の双方を攻撃するとともに、一方でアングロサクソン文明由来の資本主義をも攻撃した・・・。そして彼は、これらに代わるものとして、官僚的福祉主義の一類型たるコーポラティズム(corporatism=政府の経済政策の決定や執行の過程に企業や労働組合を参加させる考え方や運動)を推奨した。」(コラム#1165。なお、コラム#3758及び3766のコーポラティズム・シリーズも参照のこと。)
 具体的には、ホアン・ペロンは、その第一・二期の大統領時代に、アルゼンチンの大企業群を国有化し、企業と国家の区別を不分明にしましたし、労働組合に対しても、大統領になる前の厚生大臣当時のペロン・・1943~45年の軍事政府の実力者・・は、合意の下でスト権を放棄させ、その見返りに国に諸労働争議を調停する役割を引き受けさせました(注2)。
 (注2)「アルゼンチンの上流階級からすると、<ペロンによる>労働者の境遇の改善は怒りの元だった。というのは、田舎出身の鉱業労働者達は、それまでは彼等によって召使い視されていたからだ。羽振りの良いアルゼンチン人達は、これら労働者について、「ちっこい黒い頭部の連中(little black heads)」といった人種主義的中傷用語でもって言及するのが一般的だった。」
g:http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_Per%C3%B3n
(11月6日アクセス)
 ここからも、アルゼンチンの欧州性、すなわち、アルゼンチンが階級社会であった(ある?)ことが分かる。
 ペロンはファシストであったとする者もいますが、ペロンと彼の政府が組織的暴力や独裁的支配に訴えたことはありません。
 ペロンが反対勢力を排斥した方法は、基本的に彼自身と彼の党を選挙で勝利させることでした。
 ただし、ペロンは、反対勢力に対して、間歇的に、裏切り者や大国たる外国の手先呼ばわりしました。
 また、放送局を国有化したり、労働組合を中央集権化して彼の統制の下に置いたり、全新聞の印刷を独占して新聞ににらみをきかしたりしました。
 更に、ペロンは、時々、不法に、反対派の政治家やジャーナリストを投獄したり、反対派の新聞を閉鎖したりしました。
 (以上、特に断っていない限り、f:http://en.wikipedia.org/wiki/Peronism (11月6日アクセス)による。)
 ペロンをファシストであったとする見解は、アルゼンチン国内で当初からありました。
 スプルイル・ブラデン(Spruille Braden<。1894~1978年。アルゼンチン大使:1945~47年。後に西半球担当米国務次官補
http://en.wikipedia.org/wiki/Spruille_Braden 
>)駐アルゼンチン米国大使は、ペロンが初めて立候補した大統領選挙でペロンの反対派に担がれ、ファシストでナチであるとペロン候補に反対運動を展開しました。
 ペロンに対するこのような見方は、1947年に、エビータがスペインのファシスト独裁者たるフランコの公賓として欧州旅行に出かけたことで一層普及しました。
 (以上、特に断っていない限り、dによる。)
 ペロンがムッソリーニを尊敬していたことは間違いありませんし、ペロニズムはイタリアのファシズムのアルゼンチンでの実施であったとか、ペロニズムはラテンアメリカの顔をしたファシズムであるといった主張をしている学者は少なくないのです。
 他方、ペロンはファシストでなかったとする見解も唱えられています。
 ペロンはファシストでも反ファシストでもなく、単に現実主義者(realist)であったのであり、欧州のファシスト諸国における労働者階級の政治への積極的介入に大いに感銘を受けていたに過ぎない、というのです。
 なお、ファシストというと、一般には反ユダヤ主義を連想させられますが、ブラデンの後継米国大使となったジョージ・S・メッサースミス(George S. Messersmith)は、「ニューヨークを始めとする米国の大部分の場所でのユダヤ人に対する社会的差別に比べれば、<アルゼンチンでの差別は>少ない」と記していますし、元米国・アルゼンチン商業会議所会頭のローレンス・レヴァイン(Laurence Levine)は、「<当時の>米国政府は、ペロンが、イタリアを尊敬していたけれど、文化がお堅過ぎるとしてドイツが嫌いであったことを知らなかった。また、アルゼンチンにも反ユダヤ主義があったが、ペロン自身と彼の政治諸団体は反ユダヤ的ではなかった…。また、ホアン・ペロンのアルゼンチンはたくさんのナチの犯罪者達をアルゼンチンに難民として受け入れたが、ホアン・ペロンのアルゼンチンは多くのユダヤ人移民も惹き付けた。これが、現在でも20万人を超えるユダヤ系市民を抱える、ユダヤ系をラテンアメリカで最も多い、世界でも最も多い国の一つであり続けている理由の一つだ。」と記すとともに、ペロンの産業政策を立案した中心的人物はユダヤ系だった、とも記しています。
 (以上、特に断っていない限り、fによる。)
 
 このどちらの見解に私が与するのかは後述したいと思いますが、上記議論の中に出てきた「ラテンアメリカの顔」などというものが果たしてあるのか、について付言しておきたいと思います。
 「・・・19、20の両世紀にわたって、欧州と米国によってラテンアメリカは資源の収奪を受けた<が、>・・・その先住民社会のユニークな諸徳と社会諸運動のおかげで・・・この地域は、「他の発展途上世界を荒廃させたところの、全球主義者とやりたい放題の市場諸政策による最も極端な結果に抗する」ことを可能にした。」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/11/05/AR2010110503427_pf.html
(11月6日アクセス)という夜郎自大的な主張がラテンアメリカ人によってなされることがままあります。
 このような主張に対する、上記コラム中の、ネオリベラル/ワシントンコンセンサス派による反論はさておき、私自身は、いかなる意味においても、このような主張はアルゼンチンにはあてはまらないと考えています。
 ラテンアメリカ一般においては、白人による原住民と黒人奴隷の収奪、そしてラテンアメリカの欧州・米国による収奪、という入れ子構造の収奪が行われたという歴史があり、被収奪者が連帯して収奪者と対峙せざるをえなかった、という点でラテンアメリカは欧州とは異なるのであり、私に言わせれば、だからこそラテンアメリカは欧州の外延にとどまるのに対し、アルゼンチンは、このどちらの収奪とも基本的に無縁であるところの、欧州そのものであって、欧州同様の階級主義及び(個人主義ならぬ)利己主義を基調とする国であるからです。
(続く)