太田述正コラム#4206(2010.8.21)
<落第政治家チャーチル(その1)>(2010.12.15公開)
1 始めに
 リチャード・トイ(Richard Toye)が ‘CHURCHILL’S EMPIRE The World That Made Him and the World He Made’ を上梓しました。
 この本の書評類をもとに、政治家としてのチャーチルを厳しく採点しようと思います。
A:http://www.nytimes.com/2010/08/15/books/review/Hari-t.html?_r=1&ref=books
(書評。8月18日アクセス(以下同じ))
B:http://papercuts.blogs.nytimes.com/2010/08/13/stray-questions-for-richard-toye/?pagemode=print
(著者へのインタビュー)
C:http://www.nytimes.com/2010/08/15/books/review/excerpt-churchills-empire.html?_r=1&ref=review&pagewanted=print
(本の抜粋)
D:http://www.boston.com/ae/books/articles/2010/08/15/churchill_in_focus/
(書評。8月20日アクセス(以下同じ))
E:http://www.literaryreview.co.uk/brendon_02_10.html
F:http://www.spectator.co.uk/books/5847223/becoming-a-victorian.thtml
(この本を含む3冊のチャーチル本の書評)
G:http://www.spiegel.de/international/europe/0,1518,712259,00.html
(チャーチルについての記事。8月21日アクセス)
 なお、トイは、英エクセター(Exeter)大学歴史学科の上級講師です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Toye
2 政治家チャーチル
 (1)序
 職業としての政治に(国家レベルで)従事するところの、志ある人を政治家と言います。
 他方、志なき人は政治屋ということになるわけです。
 政治家の評価はいかに定まるのでしょうか。
 それは、彼または彼女の志が実現したかどうかです。
 志の実現に向けてどれほど努力しようと、政治は結果責任ですから、関係ありません。
 チャーチルに関しては、このような観点から、私は、政治家として落第の評価を下さざるを得ません。
 もっともチャーチルに対する厳しい評価は、私の専売特許では全くありません。
 「・・・驚くべき歴史家もどきの<米国人作家>ニコルソン・ベーカーの最近の作品であるところの『Human Smoke』<(コラム#2419以下)>で、彼は、チャーチルをヒットラーと違いのない存在として提示した。・・・」(A)
 「・・・ジョージ・W・ブッシュ<前米大統領>は、とどろくがごときチャーチルの胸像<(コラム#3134)>をホワイトハウスの執務机の近くに残して行った。
 これは、彼自身<の事跡>をチャーチルのファシズムに対する英雄的対決(stand)に準えようとしたものだ。
 <しかし、>バラク・オバマ<現米大統領>は、これを英国に返還させた。
 それがどうしてかを推測するのはむつかしくない。
 彼のケニヤ人の祖父であるフセイン・オンヤンゴ・オバマ(Hussein Onyango Obama)は、チャーチルの帝国に抗った廉で、チャーチルの監督の下、裁判抜きに2年間投獄され、拷問を受けたからだ。・・・」(A)
 「・・・英国には二つの範疇の人がいる。
 チャーチルの悪口に絶対に耳を貸さない人と褒め言葉に絶対に耳を貸さない人だ。・・・」(B)
 では、私はどうしてチャーチルを落第政治家と見るのでしょうか。
 それを、トイの本の書評類を援用しつつご説明しましょう。
 (2)古典的英国型帝国主義者チャーチル(悪人篇)
 「・・・チャーチルは非白人を極めて軽蔑していた。・・・。」(C)
 「・・・チャーチルは、「反黒人」であり、「切れ目と弁髪の人」<(支那人)>を憎んだし、ヒンズー教徒に対しては「前もって定められた悪しき運命の下に生まれたことだけによって守られた」腐った人種と罵った。
 彼は、<アフガニスタンと英領インドの西北部にまたがって住む>パシュトン人に対して「懲罰的惨害を与えること」を擁護した。
 南アでは、彼は、農場の焼き討ちや強制収容所といった、ボーア人に対する過酷な諸措置を正当化した。
 イラクでは、彼は「野蛮な部族」に対して<化学兵器の>マスタード・ガスを使用することを促した。
 アイルランドでは、彼は<アイルランド独立を叫ぶ>シンフェーン党の集会を空から機関銃掃射すべきであるとした。
 彼は、インドでは、白い王様(Raj)<たる英国人>の存在が不可欠であるように見せるために「苦く血腥い」地域内暴力が起きることを望んだし、1943年のベンガル飢饉<(コラム#27、2307)>に対して無感覚な反応をした。・・・」(E)
 「・・・<彼が>ナチスによって信奉された民族的優越性のエートスへの理屈抜きの反対者であったことに照らせば皮肉にも、チャーチルは英国人の自然的かつ民族的(natural and national)優越性を信じ込んでいた。
 彼は、幅広い自由の擁護者にしては困ったことに、黒人の能力について懐疑的だった。
 熱烈なナショナリストとして、彼は何よりも感傷的な人間だった。
 過去について、詩と彼の青年時代について、英国民族の過去の武勇と民族性について・・。
 彼はこれらすべてを維持し回復しようとし、彼自身を文字通りかかる伝統の下に置いた。
 彼こそは大英帝国の最後の古の叙情詩人(troubadour)だったのだ。・・・」(D)
 では、もう少し具体的に見て行きましょう。
(続く)