太田述正コラム#4276(2010.9.25)
<日本の戦犯は誰なのか(その2)>(2011.1.12公開))
 「7月22日、第二次近衛内閣が成立し、外相松岡洋右、陸相東條英機、海相吉田善吾(のち及川古志郎)<へ>と交代する。この夏、イギリスは最悪の情況にあった。ヨーロッパ西部戦線で英仏軍が地すべり的に惨敗し、英軍のダンケルク撤退(40年5月~6月)、フランスの降伏(6月22日)、ドイツ空軍の英本土空爆開始(8月10日)と相次ぐ中で、イギリス政府は、好機に乗じた日本の南進を極度に警戒した。イギリス政府は、懸案中の現銀・治安・通貨に関する天津租界問題で大きく譲歩し、日本軍による英仏租界封鎖は解除(6月20日)された。また日本側は中国との和平実現に努力するという了解のもとに、イギリス政府は、援蒋ビルマ・ルートの3ヶ月閉鎖を受け入れた。アメリカ政府からの明確・迅速な支持をなお期待できない状況で、「たんに威信のために、日本の敵意を刺激すべきではない」というのがチャーチルの戦時内閣(5月1日成立)の結論であった。・・・
 ともあれ、欧州戦争不介入の政府方針下に一時鳴をひそめていた南進論は、好機に便乗して再び浮上する。今回は南進一辺倒の海軍中堅層からだけでなく、陸軍省・参謀本部の中堅幕僚層からの突き上げも加わ<った・・・。>陸軍としては、フランス領インドシナを通ずる援蒋ルートを封止して日中戦争の早期解決を望んでいた。」(49頁)
 「マレー、シンガポールなど極東英領攻略論が<1940年>6月以降陸軍側から急速に浮上する。この場合、アメリカの動向いかんが問題にされた。陸軍側は、南方進出に当って、戦争は「英国のみに之を制限」する必要をうたい、英米分離は政戦略的に可能である、と楽観していた(7月3日・・・)。一方海軍側・・・は・・・ことさらに対米戦の危機を強調し、戦争相手を英国に限定した場合でも、「対米開戦は之を避け得ざるべきをもって、之が準備に遺憾なきを期す」と述べて・・・いる。海軍としては・・・物動計画を海軍優先に転換させるべく、対米戦の脅威を強調する必要があったのである。・・・
 <しかし、>海軍側も<ホンネでは>「英米不可分なるも英が『ペシャンコ』になれば米も立ち得ず」、「英の領土を侵すも英援助のため米の乗り出す算少し」と<考えていた。>・・・
 重光葵駐英大使も、東京への報告(8月5日)で、「英米の政策ハ共同(joint)政策ニアラズシテ平行(parallel)政策ナルモ右平行政策も今日迄ノ所必シモ目的及運用ニ付完全ニ一致シ居ラズ」との判断を示している。・・・
 <つまり、>外務・陸軍・海軍いずれも、英・米間の「見えない協調」が「見える協調」へとその深部で移りつつある状勢を認識できなかったのである。9月22日北部仏印進駐、同27日三国同盟締結。これを契機に英米間の対日平行路線は「見える協調」=対日統一戦線結成へと転じ、さらに1941年に入って、アメリカの対日強硬政策へ統合されて行く。」(50~51頁)
→池田による対英(のみ)開戦論批判は、対英(のみ)開戦なき仏印進駐路線を当時の日本政府がとっている間に、英国の対独戦況が好転するとともに、英米協調が進展したことを踏まえた後付的批判です。
 むしろ批判されるべきは、陸軍の対英(のみ)開戦論を水で薄めてしまうことによって、千載一遇の戦機を逸してしまった当時の内閣、具体的にはその首相たる近衛文麿である、と言わざるをえません。
 すなわち、主たる戦犯は近衛文麿であった、ということです。
 さしずめ米内光政は従たる戦犯、といったところでしょうか。(太田)
3 どうして近衛は誤ったのか・・終わりに代えて
 近衛が対英(のみ)開戦に踏み切らなかったのは、若い頃に、彼が英米を一体視するという謬見を身につけてしまい、その後、この謬見を矯正することを怠ったからではないでしょうか。
 「弱冠二十八歳にして彼は『日本及日本人』に「英米本位の平和主義を排す」との論文(<第一次世界大戦終了直後の>大正七<=1918>年一二月一五日号)を発表する。その趣旨は以下の通りである。
 第一次世界大戦の結果、英米に都合のよい国際状況が作り出されたが、彼らが国際関係において正義人道を唱え平和を言うのも、所詮は現状維持をもって有利だと考えるところに発する。「英米人の平和は自己に都合よき現状維持にして之に人道の美名を冠せたるもの」、つまり「自己の野心を神聖化したるもの」に他ならないとした。したがって英米の平和主義は、「何等正義人道と関係なきもの」に他ならず、さらにその現状を法的に固定化しようとする国際連盟もまたいかがわしいものと見た。近衛は言う。「英米本位の平和主義にかぶれ国際連盟を天来の福音の如く渇仰するの態度あるは実に卑屈千萬にして正義人道より見て蛇蝎視すべきものなり」。何となれば、「此戦争によりて最も多くを利したる英米は一躍して経済的世界統一者となり国際連盟軍備制限と云ふ如き自己に好都合なる現状維持の旗幟を立てて世界に君臨すべく、爾余の諸国如何に之を凌がんとするも武器を取上げられては其反感憤怒の情を晴らすの途なくして、恰もかの柔順なる羊群の如く喘々焉として英米の後に随ふの外なきに至らむ」からである。したがって、来るべき講和会議で日本は、その正義人道の欺瞞を暴くため、また真の正義人道を実現するために「黄人」に対する差別的待遇撤廃を約させるべきとして、こう言った。「我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味に於ける正義人道の本旨を体して其主張の貫徹に力むる所あらんか、正義の勇士として人類史上永へに其光栄を謳はれむ」。

http://www.hatugenshajuku.net/opinion/opinion21-2.html
(9月25日アクセス。以下同じ)
 ここから、当時の英国については現状維持志向と言えたとしても、米国の方は現状打破志向であった・・大英帝国及び大日本帝国を瓦解させて自ら世界覇権国たらんとしていた・・ことについて、近衛は、あえて無視したか、そもそも無知であったことが分かります。
 人種差別についても、まさに翌1919年に開かれたパリ講和会議において、日本が人種的差別撤廃提案を行ったところ、「イギリスは<日本が原提案を修正した>修正案には賛成の意向だったが、移民政策が拘束されてしまうと反発する<(白豪主義の)>オーストラリアと南アフリカ連邦の意向を無視できず、結局反対に回った」のに対し、「<この>修正案は採決の結果、出席者16票中11票の賛成・・・を得るに至り、賛成多数により可決かと思われた<が、>議長であったアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンはこの案に反対。それまで全ての議題は多数決で採決されていたにも関わらず、突如『重要な議題については全会一致が必要である』として日本の提案を退けた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E7%9A%84%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%92%A4%E5%BB%83%E6%8F%90%E6%A1%88
というひどい対応を米国は行ったことからも、両国の姿勢には大きな違いがあったわけですが、このような両国の違いについても、近衛は全く気付いていなかったであろうことが、やはりここから分かります。
 (ちなみに、「1919年のアメリカでは自国政府の講和会議での行動に対して、多くの都市で人種暴動が勃発し、100人以上が死亡、数万人が負傷する人種闘争が起きた」(ウィキペディア上掲)ということが、逆に、ウィルソンがどうしてこのようなひどい対応をせざるをえなかったかの理由の一端を物語っています。)
 それにしても、近衛が少なくとも1940年まで抱き続けた英米一体との謬見について、それから半世紀も経った1990年時点においてもなお、それが謬見であることに気付かず、当時の陸軍等批判を繰り返す池田清・・現在でも大部分の日本人はそうです・・には呆れるほかありません。
(完)