太田述正コラム#4368(2010.11.10)
<『吉田茂の自問』を読む(その1)>(2011.2.21公開)
1 始めに
 読者のTAさん提供の小倉和夫『吉田茂の自問 敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』(藤原書店 2003年9月)からの抜粋から、更に抜粋し、適宜私のコメントを付したいと思います。
 吉田茂は、2度目の首相当時の(まだ講話前の)1951年1月上旬、外務省政務局政務課長を箱根の別荘に呼び、次のような指示を与えました。
 「・・・日本外交は、満州事変、支那事変、第二次世界大戦というように幾多の失敗を重ねてきたが、今こそこのような失敗の拠ってきたところを調べ、後世の参考に供すべきものと思う。これらの時代に外交に当たった先輩、同僚の諸君がまだ健在の間に、その意見を聞いておくのもよいだろう。
 以上のようなことを、上司とではなく君たち若い課長の間で研究を行ない、その結果を報告してもらいたい」(18頁)
 
 こんな指示を出したのでは、次の四つの理由から、碌な報告書ができあがらないに決まっています。
 第一に、いくら外務省出身だと言っても、吉田は首相なのですから、「日本外交は」ではなく、「日本政府は」でこの指示を始めなければならなかったはずです。
 省庁横断的なプロジェクトチームを立ち上げるのは時間も経費もかかるし秘密保全もできない、という判断があったとしても、「満州事変、支那事変、第二次世界大戦」を外交的視点からだけで振り返ることができるわけがありません。
 第二に、百歩譲って、外交的視点からだけ振り返ることにそれなりの意義があるとしても、それを外務省職員だけで構成されるプロジェクトチームにやらせたのでは、外務省に甘く外務省以外には厳しい報告書になるのは分かりきっている話です。
 第三に、吉田の指示は、「満州事変、支那事変、第二次世界大戦」(の日本政府による開始(?))のいずれも、ないしは戦前の昭和史が「失敗」であった、という結論をいわば押しつけた形のものであったことであり、結論が決まっている以上は、失敗をもたらした「過誤」について、犯人捜しをした結果をまとめた報告書ができあがることもまた分かりきっている話です。
 更に端的に言えば、その犯人が軍部ということにされるのは火を見るより明らかであった、と言うべきでしょう。そもそも、吉田が軍部嫌いであることは周知の事実でしたしね。
 第四に、これはTAさんが(コラム#4359で)既に指摘している根本的な問題点ですが、以上のような指示内容である以上、「満州事変、支那事変、第二次世界大戦」に係る諸外国が犯した「過誤」を追及、考察することは最初から全く考慮の外に置かれており、そんなマスターベーション的、あるいは自虐的な報告書を取り纏めてどうするのだ、ということです。
 この本の著者(編者とすべきであったのでは?)の小倉和夫は、
「吉田茂は、<その>月末に日本を訪問する予定のジョン・F・ダレス特使との講和条約に関する交渉方針を練っていた。・・・アメリカ側が日本に要求してくる最大のポイントは、日本の再軍備であることを十分意識していた。しかし、吉田は、信念として、日本の安易な再軍備には反対であった。・・・再軍備はしない–そう日本国民が固く決意している以上、それをくつがえすことはできない。しかし、その決意が真に堅固たるものであるには、軍部の暴走を許した過去の反省が深く鋭いものでなければならなかった。吉田茂の頭と心を支配していたこうした思いが契機となっ<て>」(16頁)
吉田は上記のような指示を行ったのではないか、と記しています。
 私は、恐らく、この忖度は、正鵠を射ているのではないかと思います。
 吉田は、このような政治的目的、すなわち、(朝鮮戦争勃発時に引き続く、)講話時における(再度の)再軍備拒否に成功するわけですが、その結果、占領終了後の日本は米国の属国になったばかりではなく、吉田の予期に反してその状態が恒久化してしまったことを我々は知っています。
 このような取り返しの付かない「過誤」を吉田が犯すための材料に使われる報告書を、外務省の当時の課長達つくらされた、ということになるわけです。
2 「日本外交の過誤」より
 「当時の中国の特殊事情からして、ある程度の武力行動は、かりに止むをえなかったとしても、満州国を独立せしめ、さらに、国際連盟を脱退(昭和8年3月27日)するところまで突走ったのは、勢いのおもむくところとはいえ、何等利するところのないことであった。これについては、もちろん、日本国内の強硬派ばかりを責めるわけには行かない。米国のスティムソン国務長官が、事態の推移が見極められるまで待たないで不承認主義(満州国の成立は、太平洋の現状維持についての国際的了解に反し、米国としては認められないというもの。(小倉))なるものを通告(昭和7年1月7日)した<(コラム#4004)>ことも、日本をあそこまで追い込む一因となったとも見られよう。又、当時の外務当局に事変前の内外情勢の行詰りを打開しようというような積極性が乏しく、又事変勃発後においては、事毎に軍部に反対したが、その根拠が現実から遊離した観念論に終始したことも、反省の余地があるのではなかろうか。・・・満州事変そのものだけについていえば、国際的な悪評をこうむりながらも、一つの既成事実をつくることに成功した。そして、国民は、その方について行ったのである。」(70頁)
→めずらしく、外務省や米国の批判を行っている箇所です。これは、軍部や国民が現実主義的であって、外務省や米国が「現実から遊離した観念論に終始し」ていた、と断じたとさえ読むことができそうです。惜しむらくは、どうして外務省と米国がそれぞれ「現実から遊離していた」のかの分析がなされていません。(太田)
 「日本は、国際聯盟脱退後、昭和9年にはワシントン海軍軍縮条約を廃棄し(12月29日)、又、昭和11年には、ロンドンの軍縮会議<(注1)>からも脱退した(1月15日)。両者[英米と日本と]の国力には大きな懸隔があったのであるから、日本の国力についての現実的考慮からすれば、いずれもまとめた方が有利な話であったはずである。」(99頁)
 (注1)第二次ロンドン海軍軍縮会議。「1935年12月9日にイギリスのロンドンで開かれた国際会議。1930年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたが、1934年に行われた予備交渉が不調に終わった為、日本は軍縮条約からの脱退を決意。1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約の条約破棄を通告(破棄通告後二年間は有効)。1936年(昭和11年)1月15日に本会議を脱退、イタリアもエチオピア侵略の為脱退し、最終的に英・米・仏の三国のみで1936年3月25日に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0 (太田)
→一見もっともらしい指摘ですが、国力はともかくとして、当時の米、英両国とも不況下にある上世論は軍備増強に否定的であり、当時の日本にとって、無条約状態が現実に有利なのか不利なのか、一概には言えなかったのではないでしょうか。また、その後、実際に、日米英3国の建艦状況はどのように推移したのでしょうか。具体的に論じていないことにもの足らなさを覚えます。(太田)
 「<昭和11年には日独防共協定が締結され、>翌昭和12年には、イタリーが防共協定に参加し、日独伊三国間の協定になった・・・ソ連ないし、国際共産勢力なるものの脅威は、当時国際的にさほど感ぜられていなかった。ソ連自身は、革命以来、第二次大戦の直前までは、少くとも、対外武力行使に関する限り、ずっとおとなしくしていた。コミンテルンなるものの活動も、ソ連以外のどの国でも共産革命を成就せしめえなかった位だから、国際的な対抗措置を講ずる必要がある程の脅威とは認められていなかった。それに反して、日独伊の方が国際的に脅威を感ぜられていたのである。日本が中国に進出するに際しては、よく防共ということを口にしたが、それはいわば口実であり、又、一般にそう認められていた。従って、世界の非共産主義諸国の反共聯盟の結成というようなことは、全く夢に過ぎなかったわけである。今日の世界の情勢にかんがみれば、先見の明があったといえないこともないかも知れないが、果してどれだけまじめであったか疑問であり、又たとえ先見の明があったにしたところで、一般に受け入れられなければ、現実的には無意味である。」(101~102頁)
→ここは、最も問題のある箇所です。 
 (以前コラム#4002で記したように、)日本政府は、外相も当然加わった閣議で決定、改定されてきた帝国国防方針を、1936年(昭和11年)に、初めて軍部と外務省との間の事前調整を経て再度改定し、ロシア(ソ連)を(米国と並んで)最大の仮想敵国としたところ、あたかもそれがおかしかったと言わんばかりです。
 そもそも、「ソ連ないし国際共産勢力」が「ソ連以外のどの国でも共産革命を成就せしめえなかった」と、あたかも「ソ連ないし国際共産勢力」が(本来支那の一部である)外蒙古で共産革命を成就させ(、支那から分離せしめた)ていたという史実を忘れたような妄言を記すとは呆れるほかありません。
 ソ連が「対外武力行使に関する限り、ずっとおとなしくしていた」というのも、ソ連が1929年7月にソ連軍を満州に侵攻させて中華民国軍を撃破するという中東路事件を引き起こした(コラム#4004)史実を無視しています。
 「日本が中国に進出するに際しては、よく防共ということを口にしたが、それはいわば口実であり」というくだりなど、支那政策に真摯に関与した軍人達に対する冒涜以外の何物でもありません。
 また、「一般にそう認められていた」にいう「一般」とは、一体誰を指しているのでしょうか。
 当時の国民世論ではありえない以上、論理的には外務省と米英等ということにならざるをえません。
 このように、外務省は、文字通り、支那や日本国内の「現実から遊離した観念論」をもてあそんでいたわけですが、そんな外務省が、国内的には軍部、就中陸軍にことごとくケチをつけてはその足を引っ張り、また、米英等に日本の対ソ・対共産主義政策を広報宣伝して「受け入れられ」るようにする労など一切とらなかったのは当然であったと言うべきでしょう。
 こんな外務省、こんな外務官僚達を持っていたことが日本の悲劇だったのです。(太田)
(続く)