太田述正コラム#4436(2010.12.14)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その11)>(2011.3.23公開)
 「タフト総督(Commissioner)が、1900年6月3日にマニラ湾に到着した時、彼は驚きをもって、「我々を歓迎してくれると期待されていた<フィリピン>民衆は、<そこには>いなかった」と記した。・・・
 <そして、出発前は>フィリピン人を彼の「小ちゃい茶色の兄弟達」とつぶやいた<というのに、>到着してすぐ、彼が送った電信には、兄弟的愛情はほとんどうかがえなかった。
 「この島々の住民は、無知で迷信深い人々・・・であり、カトリック教会に深く絡め取られている…。これらの人々は最もひどい嘘つきであり、そんな連中に遭遇しなければならないのは私の運命だったのだ。連中は、色んな意味で成長した子供以外のなにものでもない…。彼らがアングロサクソンの自由を理解するだけでも50年から100年の訓練が必要だ。」(115)
 「タフトの累次の電信は、マッキンレーの主張を補強するものだった。
 「政治的戦争としての叛乱の背骨は折れた。」と。
 しかし、タフトがこの上もなく楽観的な報告書を書いていた間、マッカーサー将軍は、落ち込むような泥沼を描いた。ここは、米陸軍は全部で116,000平方マイル中わずかに117平方マイルしかコントロールしていなかったところの、米国人が一人で出歩くことなど試みられない敵意に満ちた国であり、戦争神経症に罹ったフィリピン人民衆のヤンキー圧制者に対する憎しみが日一日と募りつつあった国であると。」(115)
 「<1900年に、マッキンレーが再選に臨んだ際に副大統領候補となった>ローズベルトは、選挙戦において、フィリピンについてはほとんど何も知らないことがばれてしまったけれど、<うまくフィリピンの話を使った。>
 「米国がフィリピンをその部族達の手に抛棄するなどということは考えられない。アギナルドの下で自治を与えることは、誰かそのあたりの酋長の下でアパッチ族の特別保留地に自治を与えるようなものだ」と彼は宣言した。」(117~118)
 「1901年3月23日、米陸軍は、彼の山の中の隠れ家でアギナルド大統領を捕らえた。
 マッカーサー将軍の管理下に置かれて2ヶ月、このフィリピン建国の父は、「余りにも多くの血、涙、荒廃があった…<私は、>フィリピン諸島を米国の主権の下に置くことを認め、受忍する…私は平和を希求する人々の声に耳を傾けないわけにはいかない…<そうすることによって、>私は汝、私の愛する国に奉仕することになると信じる。」(118)
→その後のアギナルドの人生に触れておきましょう。
 「1935年、独立の準備ということで、フィリピンの自治(Commonwealth化)が認められると、アギナルド<(漢人系)>は、大統領選に出馬したが、スペイン人との混血の火の如きマニュエル・ケソン(Manuel L.Quezon<。1878~1944年。先の大戦中、亡命先の米国で死去
http://en.wikipedia.org/wiki/Manuel_L._Quezon (太田)
>)に地すべり的敗北を喫した。
 この2人は、最終的に1941年に公式に和解した。
 その時、ケソン大統領は、フィリピンの<1898年7月12日における、もともとの>独立宣言を記念するため、国旗の日を7月12日へと変更したのだ。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Emilio_Aguinaldo
 「第二次世界大戦によってアメリカの植民地であるフィリピンに日本軍が進撃してくるとアギナルドは日本と協力し、日本を応援する演説を行い、演説の中にはラジオを通してコレヒドール島に立て篭もっているマッカーサーに対してフィリピンの無実の若者の命を助けるために降伏するよう求める演説までも行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89
 「<そして、フィリピン<は、>第二共和国として再度独立した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD 前掲
 (この部分は、英語ウィキペディアでは、「第二次世界大戦で日本軍がフィリピンに侵攻すると、再びアギナルドはその化けの皮を現した(showed his true colors)。
 彼は、日本軍に協力し、演説を行い、記事を発表し、日本軍を支持する恥ずべき(infamous)ラジオ演説を何度も行った。
 その中には、コレヒドールのダグラス・マッカーサー将軍に対し、「フィリピン人の無辜な若者を殺さない」ように呼びかけたものもある。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Emilio_Aguinaldo 上掲
となっっており、かなり毒のある書き方がなされている。)
 「<しかし、>再びアメリカ軍がフィリピンに戻ってくるとアギナルドは日本軍協力者であるとして逮捕された。その後もフィリピンの独立を裏から支え、ついに1946年7月4日、・・・フィリピン<の第三>共和国が成立しそのパレードにアギナルドはフィリピン国旗を高々と掲げるに至った。フィリピン共和国の独立に一生を捧げたアギナルドの波乱の人生は1964年2月6日に幕を下ろした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89 前掲
 独立運動に身を投じていた頃のアギナルドは、支援を求めるのなら、米国ではなく日本の朝野にそれを求めなければならなかったのですし、日本政府も、当初からもっとフィリピンに関心を抱くべきだったのです。
 この、日比双方におけるボタンの掛け違いが、フィリピン、ひいては日本の悲劇をもたらしたのでした。
(続く)