太田述正コラム#4438(2010.12.15)
<私の原風景(その1)>(2011.3.24公開))
1 始めに
 フィリップ・マンセル(Philip Mansel)の ‘Levant: Splendour and Catastrophe on the Mediterranean’ を、その書評をもとにご紹介しましょう。
 目的は?
 移民の積極的受け入れを推奨する私にとっての原風景をご理解いただくことです。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/434b4756-0317-11e0-80eb-00144feabdc0.html#axzz183kln4n5
(12月14日アクセス。以下同じ)
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/8123828/Levant-Splendour-and-Catastrophe-on-the-Mediterranean-by-Philip-Mansel-review.html
C:http://www.literaryreview.co.uk/milton_11_10.html
D:http://www.economist.com/node/17672952?story_id=17672952
 なお、マンセルは、1951年ロンドンで生まれ、オックスフォード大学を卒業した歴史学者です
http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Mansel
が、書評子の中には、マンセルのこの本は、同じくマンセルによる ‘Constantinople: City of the World’s Desire, 1453-1924’ と併せ読まれるべきであるとする人がいます。(B。Cも’Constantinople’に言及している。)
2 私の原風景
 (1)序
 「どう見ても共通性がなさそうな一番(つがい)の人がいる。
 マルクス主義歴史学者のエリック・ホブスボーム(Eric Hobsbawm<。1917年~。ユダヤ人
http://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Hobsbawm (太田)
>)<(コラム#432)>ともの柔らかでブリッジの名手でもある俳優のオマール・シャリフ(Omar Sharif<。1932年~。エジプト人
http://en.wikipedia.org/wiki/Omar_Sharif (太田)
>)に共通するのは?
 その答えは、二人ともエジプトの港町であるアレキサンドリアで生まれたことだ。
 同じことが、イタリアの未来派の作家のジョゼッペ・マリネッティ(Giuseppe Marinetti<。1876~1944年。イタリア人
http://de.wikipedia.org/wiki/Filippo_Tommaso_Marinetti (太田)
>)、ゲイのギリシャ詩人であるコンスタンティン・カヴァフィー(Constantine Cavafy<。1863~1933年。ギリシャ人
http://en.wikipedia.org/wiki/Constantine_P._Cavafy (太田)
>)、<ナチス>副総統にしてパラシュート愛好家のルドルフ・ヘス(Rudolf Hess<。1894~1987年。ドイツ人
http://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Hess (太田)
>)<(コラム#427)>、そしてファラオのような<サッカー・チームの>フルハム(Fulham)のオーナーのモハメッド・ファイェド(Mohamed Fayed<。1933年~。ダイアナ妃の愛人の父親。エジプト人
http://en.wikipedia.org/wiki/Mohamed_Al-Fayed (太田)
>)についても言える。・・・」((B)
 「・・・この本の序文で、マンセルは、この本について、「多くの住民達が主張しているように、<アレキサンドリア、ベイルート、スミルナ(Smyrna)の3都市>が本当に世界主義的(cosmopolitan)であって、イスラム教徒、キリスト教徒、そしてユダヤ教徒の共生の錬金薬を保有しているのかどうかを見出そうとする」追求である、と描写している。
 この3つの都市は、全球化(globalization)よりも前における全球的都市だったのか?
 そして、仮にそうだったとして、どうしてそのうちの2つ<、ベイルートとスミルナ、>がキリングフィールドになってしまったのか?・・・」(C)
 「・・・この本は、この<レヴァント>地域<の3都市>について、17世紀から今日までを取り扱う。・・・」(A)
 (2)原風景の形成とその姿
  ア 総論
 「・・・レヴァントが本当にその頂点に達するのは、エジプトの副王(Khedive)(1769~1849年)であったムハマッド・アリ(モハメッド・アリ=Muhammad Ali<。1769~1849年
http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_Ali_of_Egypt (太田)
>)<(コラム#55、87、388、3630、4023)>の統治期間中だ。
 この異常な、輝かしい、しかし容赦なき<マケドニア出身の>アルバニア人の冒険者は、エジプトを近代化し、スーダンを征服し、近代的な西欧化した陸軍を創設し、(フランスと英国の支援を得るために)寛容と公開性を推進し、やがて、偉大なるオスマン王朝を打ち倒して自らがスルタンになろうと決意した。
 彼はまた、レヴァントの(Levantine)アレキサンドリアとベイルートを2つながら創造することもした。
 この魅力的な、しかし危険な人物は、<英国の首相の>パーマーストン(Palmerston<。1784~1865年>)卿
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_John_Temple,_3rd_Viscount_Palmerston (太田)
<(コラム#4320)>の英国の戦闘艦群さえいなければ、イスタンブールを征服することができていたことだろう。
 ムハマッド・アリのこれらの大志の挫折は、地中海における英国の力の上昇を劃すこととなったけれど、彼は、アラブ人、アルバニア人、トルコ人、フランス人、そしてイギリス人が混淆し合っていたところの、暴虐的砲撃の後に1882年に英国がまんまと奪取した、地中海に面した急成長した町であった繁盛したアレキサンドリアにおいて、統治を続けた。
 このレバントの首都は、1952年の<エジプトの>クーデタまで持ちこたえた。・・・」(A)
 「・・・17世紀以降における<この3都市の興隆>すべての鍵となったのは、貿易だった。
 「金持ちになれ」というのが<そこにおける>人生の掟だった。
 カネを儲けることは、民族の違いを消去し、税金をかけたがり戦争が大好きな民族諸政府の共通の利害とは大いに異なるところの、一連の共通の利害をビジネスの競争相手達にも与えた。
 貿易はまた、商人達と、リヴォルノ(Livorno<。イタリアのトスカーナ地方の西端の港町
http://en.wikipedia.org/wiki/Livorno (太田)
>)、マルセイユ、或いはハンブルグといった所にいるその顧客達、そしてパートナー達の心的水平線を拡大した。・・・
 ・・・諸外国が、これらの都市において示した関心は、問題が生じたその時々に、<これら諸外国が>追加的保護を<これらの都市に>与えることによって、これら諸都市に資した。
 しかし、これら<の諸都市>から<その周辺地域に>恒常的にぼたぼた垂れてくる政治的屈辱は余りよからぬ効果を生じた。
 外国の存在によって直接的便益を感じなかったところの、<周辺>地域の住民達のうちの幾ばくかの連中が常にいた。
 そして、彼らが敵意を露わにするようになると、外国のあらゆるものに対する憎しみは、彼らの政治的怒りの火に油を注いだ。・・・」(B)
(続く)