太田述正コラム#4440(2010.12.16)
<私の原風景(その2)>(2011.3.25公開)
 「レヴァントの偉大な3都市は東と西の間の橋頭堡であり、数多の民族の家となった世界主義的溶解炉だった。
 スミルナ、ベイルート、そしてアレキサンドリアは、<いずれも>瀕死の状況にあるオスマン帝国の表面上は一部だった。
 しかし、これらの都市の住民は、昔のご主人であるところの、コンスタンティノープルのスルタンに対してほとんど隠そうともしない侮蔑の念を表明していた。
 多かれ少なかれ慈悲深い統治者達によって、都市国家のように統治され、この3都市は、急速に富と学問の中心となった。
 (現代の欧米の水準に照らしても、瞠目すべきことに)寛容であったことから、この3都市は、そこを家とした王朝的な諸家族に羨むべき自由を与えた。
 こういった諸都市では、30にも達する民族が肩を寄せ合って住んでおり、法の支配がこの上もなく重要だった。
 だからこそ、領事が本領を発揮したのだ。
 それぞれのコミュニティーの頭として立ち、自分の民族のふるまいについて法的に責任を負い、彼らは東洋の地方総督(satrap)のように自分達の事柄を切り盛りすることができ(、しばしば実際に切り盛りし)た。・・・」(C)
 「・・・マンセル氏は、第一次世界大戦より前の繁栄のイズミール(Izmir)(かつてのスミルナ)、1950年代におけるエジプトのナショナリズムの勝利より前の日々のアレキサンドリアを描写する。
 この両方の都市には、地域に強力な根を張った富裕な英国人家族達がいた。
 <オスマントルコから独立こそしたけれど、>貧しいギリシャ王国(Hellenic kingdom)を見下す、金持ちで教養あるギリシャ人達、洗練され自由に生きる西欧人達との交流を享受するように見えるイスラム教徒の君主達もいた。
 オスマントルコ世界の港であったマンセル氏の3都市には、明白な類似点と、そしてそれほど明白ではない類似点とがあった。
 3都市は、すべて、欧州の諸大国が強力な戦略的かつ商業的利害を有した場所だった。
 3都市は、すべて、(しばしば東方のキリスト教徒達との)外部との人的つながりに立脚したところの、魅力に満ちた生活様式が栄えた場所であって、ある程度は地域のイスラム教徒の住民の貧困の上に構築されたものだった。
 彼らの復讐的な怒りは、ついには顕在化した。
 マンセル氏が巧みな形で記すように、後背地が噛みつき返してきたのだ。・・・」(D)
  イ フランスの大きな影
 「・・・より議論のあるところだが、彼は、もう1つの共通性を主張する。
 この3箇所すべてで、決定的な欧州的影響を及ぼしたのは英国でもイタリアでもなく、自由で共和主義的なフランスだったというのだ。
 フランスのこの地域とのつながりについて、彼は読者に対し、それがナポレオン<のエジプト遠征>よりもはるかに昔からのものであることを思い起こさせる。
 それは、中世末のフランス・オスマン同盟まで遡るのだ。
 著者には、確かに説得力がある。
 エジプトにおける1950年より前の英国の巨大な軍事的プレゼンスにもかかわらず、大志を抱くエジプト人達が若干の世間的な磨きをかけるために通った場所は、フランスの高校(Lyces)群だった。
 そして、1922年にイズミールのキリスト教徒地区が焼き討ちを喰らって破壊された時、死にもの狂いのアルメニア人達は、その流暢なフランス語を使ってフランスから派遣された戦闘艦群に乗り組むべく語り抜けた。
 第一次世界大戦後にフランスの保護領となったレバノンでは、フランスとの紐帯(Gallic link)は、更に明白だった。
→レヴァントにおけるフランスの大きな影など、常識に属することなのに、「より議論のあるところだが」などと書評子が、恐らくはこの本の論調に影響を受けて(受けたふりをして?)書いているところに、フランスを小馬鹿にしている英国人の心情がうかがえます。
 以前にも書いたことがありますが、1956年、小学1年生の3学期に、私がエジプトに連れて行かれた時、英語を身につけるだけで一苦労だったというのに、両親によって、最初からフランス語も家庭教師をつけて勉強させられたことには、このような背景があったわけです。
 なお、これも申し上げたことがありますが、私のフランス語の家庭教師は、トルコ人でした。かつてレヴァントを含む大帝国の支配者であったトルコ人においても、フランス語は、その上流階級にとって、必須の第一外国語だったのでしょうね。(太田)
 もちろん、もう一つの違いは、ベイルートは、現在進行形の累次の悲劇にもかかわらず、そこが、依然、多かれ少なかれ全地球的なレバントの都市として機能している点だ。
 実際、他のアラブ諸国家がより清教徒的<イスラム教に染まり、>かつ専制的になってきているというのに、ベイルートの海浜とナイトクラブの蠱惑性、そして毎回の戦闘の後ごとの地域住民達の再建への決意、はいや増しに増して来ているように見える。
 ベイルートと対比すると、イズミールは、ほとんど完全にトルコ的な場所になってしまったけれどかなり良くやっているところ、アレキサンドリアは、圧倒的にエジプトのイスラム教徒の都市となってしまったけれど、しかし、イズミールほどは良くはやってはいない。・・・」(D)
→私は、この3都市中、イズミール(スミルナ)だけは訪問したことがありません。(太田)
  ウ アレキサンドリア
 「・・・アレキサンドリアは、奇妙な場所であり、ほとんどそれ自体が1つ世界のような存在だ。
 そこでは、民族、宗教、そして言語のすべてが合い混じり合っているのだ。
 アラブ人、ギリシャ人、イタリア人、アルメニア人、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒。
→すべて以前に申し上げたことですが、私の親友はギリシャ人(現在ロンドンで超一流大学病院の医師をしている)、勉強の競争相手はユダヤ人の女の子、ピアノの先生はアルメニア人、マンションのオーナーで同じフロアの向かいに住んでいたのはユダヤ人、といった具合でした。(太田)
 教育を受けたエリートは完全なフランス語をしゃべった。
 彼らの幼児達はそのスコットランド人のばあや達と英語をしゃべり、多くがエジプトのイートンであるヴィクトリア・カレッジで英国流のパブリックスクール教育を受けた。・・・」(B)
→私は、カイロで、パブリックスクールの前に入るプレパラトリー・スクール・・要するに英国流小学校・・に通っていました。(太田)
 「・・・アレキサンドリアは、スミルナと人種的構成は似ていたけれど、興隆への道はとても違っていた。
 スミルナは商人達によってできた。
 <他方、>アレキサンドリアは、一人の男の創造物だった。
 動的なエジプトの太守(pasha)のムハマッド・アリだ。
 彼は、この荒廃した地中海の港を全地球的な比類なき集散地へと変貌させた。
 彼が初めて訪問した時には、この町には6,000人の住民しかいなかった。
 しかし、1849年に彼が亡くなった時には、この場所は繁栄しており、その人口は100,000人を超えていた。・・・
 ・・・彼は、瞠目すべきクーデタを1807年にやってのけ、8,000人の英陸軍を追放した。
 それは、彼をエジプトの英雄にした。
 そして、成功に次ぐ成功が続いた。
 すぐに、彼は彼のオスマントルコの大君主からほとんど独立した政府の首長となった。
→カイロ市中に立っていたムハマッド・アリ(モハメッド・アリと在エジプトの日本人は発音していた)の銅像を思い出します。
 カシアス・クレイがモハメッド・アリへと改名した
http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_Ali (太田)
時、懐かしさと怪訝さの入り混じった思いを抱いたものです。(太田)
 外からの影響に対して開かれていた彼は、積極的に外国の商人達にレヴァントのアレキサンドリアに定住するよう奨励した。
 この都市は、英国統治下でもその多国籍的性格を維持し、その公開性志向精神は英国が去った時点でもまだなくなっていなかった。
 エジプトのナショナリズムは、ギリシャとトルコのナショナリズムがスミルナを破壊したように、アレキサンドリアを容易に破壊できたところだった。
 しかし、良き時代は続いたのだ。
 この場所の全地球的性格は、第二次世界大戦後の何十年とゆっくりと褪せて行った。
 基本的にこの都市の銀行と工業の国有化に伴い、外国人達は徐々にいなくなった。
 「1956年の<スエズ戦争の>後は、まるで放棄された船舶群のような邸宅群が見かけられるようになった」とマンセルは記す。「<その邸宅群は、>シャッターが下り、誰も中におらず、テーブルの上に、ここを去った家族の写真が何枚か残されている」と。・・・」(C)
→私が、カイロ時代に住んでいた、ナイル川に浮かぶザマレック島は、小アレキサンドリア的なところでした。
 また、カイロから車でぶっとばして2時間のアレキサンドリアには、毎年、従って恐らくは全部で都合4回、夏休みに海水浴に何日か泊まり込みで出かけたものです。(太田)
(続く)