太田述正コラム#4454(2010.12.23)
<ハセガワとベーカーの本(その8)>(2011.3.28公開)
 第五の証拠は、1945年8月17日に発せられた「陸海軍人へ勅語」(PP250)ですが、これについては、以前(コラム#4106で)記したところに譲ります。
 さて、ハセガワは、日本が降伏するまでの、数日間の日本の政府部内での、いわゆる国体論争について詳述していますが、ここでは深入りを避けることにします。
 下掲の外務省の比較的初期に打ち出されたラインで最終的に日本は降伏することになった、ということを頭に入れておけば十分でしょう。
 「8月9日の朝、・・・<日本の>外務省は、・・・<早くも、>国体を皇室の維持として狭く定義することとした。」(PP197)
 一点だけ補足します。
 日本政府が8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定し、8月10日に連合国に中立国を経てその旨を通告した翌11日、米国政府は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属する(subject to)」と回答しました(「バーンズ回答(Byrnes Note)」)。
 ”subject to”の訳については「制限の下に置かれる」とする外務省と「隷属する」とする軍部の間の対立があり、軍部強硬派と平沼騏一郎枢密院議長が国体護持について再照会を主張したため、8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定されたわけです。(PP227~240)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80
 しかし、11日の昼の時点で、天皇は、木戸内大臣に対し、「バーンズ回答は「日本国民が自由に表明する意思」に言及しているのだから、自分としては何の問題も見いだせない。もし国民が皇室を今でも信頼しているのであれば・・自分はそう思うが・・、この条件は皇室をむしろ強固にするだろう。」(PP231)という趣旨のことを述べています。
 このことも、昭和天皇が、戦前・戦中の日本が自由民主主義的国家であって、皇室は、国民の信頼の下で存在している、という認識を持っていたことを裏付けるものです。
3 中締めに代えて
 このハセガワの本は、まだ続きますが、このあたりで、その紹介は中締めにしたいと思います。
 原爆投下ではなくソ連の参戦こそが日本の降伏をもたらした、とのハセガワの主張には抗いがたいものがあります。
 しかし、第二次世界大戦史、ないしは20世紀東アジア史関係の学者を除けば、まだまだかかるハセガワの主張は、英語圏のインテリの間に浸透していません。
 その良い例が、別のシリーズ(コラム#4446以下)でとりあげたばかりのイアン・モリスです。
 「・・・歴史全てを通じての最も大きな過小表現<(2番目のものについては、コラム#4450参照)>として彼が票を入れたのは、日本の天皇が長崎に原爆が投下された時に示した反応であるところの、「戰局必スシモ好轉セス」
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm (太田)
だ。
 モリスは、(核兵器<の出現>により、)史上初めて「<政治的>リーダーシップが真に決定的<に重要>なものになった」と主張する。・・・」
http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/8176576/Why-the-West-Rules-For-Now-The-Patterns-of-History-and-What-They-Reveal-About-the-Future-by-Ian-Morris-review.html
(12月18日アクセス)
 この箇所だけでも、モリスが西側世界の古代史以外については、とりわけ東側世界の現代史についてはシロウトである(コラム#4452)ことが分かります。
 自分が通暁していない分野について言ったり書いたりする場合に、最新の主張等にあたるという最低限の努力をモリスは払っていないのですから何をか言わんやです。
 すなわち、「戰局必スシモ好轉セス(as the military situation does not develop in our favor)」は、長崎への原爆投下に対する天皇の反応ではなく、終戦の詔勅の一部分ですし、日本の終戦、すなわちポツダム宣言の受諾は、ハセガワの主張によれば、広島と長崎への原爆投下によってもたらされたものではありません。
 また、終戦の詔勅には天皇の筆は全く入っておらず、「戰局必スシモ好轉セス」は、内閣書記官長の迫水久常が執筆した原案の「戦勢日に日に非となり(as the military situation is becoming unfavorable day by day)」を、阿南陸相が、少しでも日本の将校達、とりわけ、(内地のような悲惨な状況にまだ必ずしも陥ってはいなかった地域も少なくなかったところの、)海外の帝国陸軍の将校達に終戦を受け入れ易くさせるために、米内海相の反対を押し切って修正させたものです。(ハセガワの本、PP244)
 更に言えば、このくだりは、「赤露」の抑止を国家戦略の基本としてきた日本が、この、米英のためにも、ひいては世界のためにも資していると自負していた国家戦略を放棄させられ、「赤露」の東アジアでの大伸張を必然的にもたらすであろうことに対する悲痛な思いと受け止めることができるところの、「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm 前掲(太田)
という、終戦の詔勅のもう1つのくだりと結果的に平仄があっているのであって、両者は併せて読まれなければならないのです。
 このくだりをモリスが嘲笑的に取り上げたことについては、自らを省みて物を言え、と強く非難されてしかるべきである、と私は思います。
 この関連で、モリス自身が自分の件の本を紹介した文章の中で記している下掲についても、私は問題にせざるをえません。
 「・・・英国が派遣した自由交易<を求める、マカートニー(George Macartney)率いる>大使節団を1793年に<清の乾隆帝が>拒否した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC (太田)
のは支那にとって大災厄だった。
 <清が>珠江と揚子江の三角州を<アヘン戦争の際に>1840年に英国の戦闘艦艇群に対して要塞化することに失敗したのは、もっとひどい大災厄だった。
 そして、日本が1941年に真珠湾を攻撃したことは、<東が犯した大災厄中、>最大のものだ。
 これらを含む無数の機会に、より良い意思決定がなされておれば、東にとって巨大な見返りがあったというのに・・。・・・
 米国の軍事の力を国際秩序の保証のために用いることは、同じように重要だ。
 これは高価な重荷だけれど、台湾と韓国の平和を60年近くにわたって維持してきたのは米国の武器だし、およそ何かがそれをなすとすれば、米国の武器が支那の21世紀における興隆を平和的なものとして維持することだろう。・・・」
http://www.csmonitor.com/Commentary/Global-Viewpoint/2010/1221/The-next-40-years-will-be-the-most-important-in-human-history
(12月22日アクセス)
 まず最後の段落からですが、日本帝国は、割譲を受けてから台湾の平和を50年、保護国化してから朝鮮半島の平和を40年、にわたって維持してきたのを、米英が日本帝国を瓦解させたために、米国が、戦後、その日本の役割を(北朝鮮を除いて)代行してきただけのことであり、また、米国が支那の興隆を平和的なものとして今後とも維持できるかどうかは、未知数です。
 さて、肝腎の、「日本が1941年に真珠湾を攻撃したことは、<東が犯した大災厄中、>最大のものだ。」という傑作なくだりは、モリスがイギリス人である以上は、当然、「英国が米国をして日本が対米英開戦をすべく画策し、それに成功し、日本が1941年に真珠湾を攻撃したことは、<イギリスが犯した大災厄中、>最大のものだ。その結果として大英帝国は瓦解してしまった」であってしかるべきでした。
 どうやら、モリスは、20世紀史に関しては、チャーチルを称えるただのおっさんであった(コラム#4437)、ということになりそうです。
 なお、そもそも日本を「東」の一環とすることは、イギリスを「西」の一環とすることと同じく間違いである、ということを最後に指摘しておきたいと思います。
(完)