太田述正コラム#4522(2011.1.26)
<ワシントン体制の崩壊(その11)>(2011.4.20公開)
 「中国に幻滅を感じていく反面で、アメリカの政策担当者たちは日本の変化を喜ばしい驚きをもって見ていた。・・・
 ワシントン会議の以前には彼らは日本の脅威を過大評価し、会議の後では両国の親密さを過大評価しはじめたのである。彼らは両国間に潜在していた諸対立に直面できなかったのか、あるいは直面するのを嫌ったのである。10年にも及ぶ人種差別の根強い傾向が存在していたにもかかわらず、ヒューズは<移民>問題の日米関係にとっての重要性を無視し、移民問題の検討を延しつづけたのである。彼は・・・太平洋岸のアメリカ人がアメリカにおける日本人移民が如何に少数に過ぎないかを理解しさえすれば、反日移民法の要求はすぐにも鎮まるものと信じていた。1924年初頭に議会における排日感情が強くなった時に初めて、ヒューズは事態の深刻さに気がついた。しかしその時においてもなお、彼は槙原正直駐米大使に、アメリカ議会に対して紳士協約の要約説明を提出するという重荷を課したのである。
 1924年4月15日にアメリカの上院が排日移民法を通過させたとき、・・・ヒューズはマサチューセッツ選出の上院議員ヘンリー・キャボット・ロッジに次のように警告している。
 「日本国民に深い憤りを植えつけるのは危険なことである。もちろん今回の法律で戦争が始まるわけではないし、戦争になっても別に恐れる必要はない。しかし今後我々は東アジアにおいて、友好と協調のかわりに傷つけられた心と敵意とに直面しなければならないであろう」。
 マクマリーも、ワシントン会議でつくり出された協調システムが、排日法により弱められることを心配し、また日本国内の親欧米的、自由主義的部分の力がこれにより弱められることを恐れていた。彼は日本人の憤りは一世代もつづくであろうと考えていた。1925年初めにもバンクロフト駐日<米国>大使は<同じような認識に立って>警告している。しかしすべての<米国の>外交官がこのような見方を受け容れたわけではない。」(224~226)
→上記引用の冒頭に出てくる「日本の変化」とは、幣原米国追随外交のことを指していると思われます。
 一時が万事、1924年6月11日に初めて外相に就任した幣原喜重郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
は、米国でその年の7月1日に施行された排日移民法に対して、例えば、駐米日本大使を召還する等の明確な抗議行動を全くとっていません。
 これは、「米国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直<の間で、排日移民法の採択を阻止するため、>埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付する、という手はずが整った。ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべ(し)」(訳文は外務省による)の「重大な結果 (grave consequences)」の箇所が日本政府による対米恫喝(「覆面の威嚇」vailed threat)である、とする批判が上院でなされ、法案に中立的立場をとると考えられていた上院議員まで含めた雪崩現象を呼んだ。「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案は76対2の大差で否決され、クーリッジ大統領も拒否権発動を断念<し>・・・た。」という経緯
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
に照らすと、米国の朝野に、日本与しやすし、との誤った印象を与える結果になったに違いありません。(太田)
 「中国における革命の擡頭に圧倒されていたアメリカの政府関係者は、中国問題に没頭し、明確な形をとるにいたらない日米間の緊張についてまで思いめぐらす余裕がなかった・・・。
 かくして国務省と現地外交官たちの間で支配的な見解は、依然として対日問題は東アジアにおける第二義的な問題である、というものであった。この10年間を通じてアメリカの東アジア政策に大きな影響力をもっていた中国専門家たちは、自分たちが通暁しており、また知的、感情的に慣れ親しんできた、中国問題に焦点を置いていた。・・・
 マクマリーは、<バンクロフトが>日本に着<任した>らすぐに中国に旅行するよう強く勧めている。アジアにおける中心的な問題は中国をめぐって生じていると考えていたからである。3年後に<ネルソン・T・>ジョンソン<(Nelson Trusler Johnson。1887~54年。駐中公使→大使:1928~41年。その後駐オーストラリア大使
http://en.wikipedia.org/wiki/Nelson_T._Johnson (太田)
)>が<中国赴任前、>国務省<極東部長であった時に>国務省の東アジアにおける諸活動を要約したとき、彼は中国問題について32ページを費しながら、日本についてはわずか1ページをさいただけであった。
 マクマリーやジョンソンのような外交官は、日本において民主化と西欧化が進行しているという一般の見解をあえて否定こそしなかったが、実際にはそれについては懐疑的であった。それ故に彼らは幾分かは紋切り型の対日認識を越えようとしたのであるが、彼らにとっても日本社会と日本の外交政策についてのより深い理解に到達することは困難であった。マクマリーは日米関係の将来についてかなり楽観的であったとはいえ、中国をめぐる日米間の対立の可能性を見通しており、また日本移民排斥法が日本の対米態度に「絶えざる毒」をもたらしていることを心配していた。しかしこのような見通しも懸念も、彼の思考のひだの中心でもっともきわだったものではなかった。彼は、日本が中国問題の処理において本当に列強と協調しており、ワシントン会議の精神を遂行していると信じていたのである。・・・
 ジョンソンの結論は、太平洋圏の将来は、オーストラリア、中国、アメリカ三国の手中にあるというものであった。
 日本は弱体であり、国際社会における二流国であるという命題は、1923年9月の大震災以後特に、アメリカの国務省関係者の間で主流的なものとなっていった。・・・
 1924年半ばにマクマリーは、「経済的政治的な自殺をすることなしに日本が我々に戦争を挑むことはできない。戦争どころか小規模な報復すら、アメリカの絹輸入を危険にさらす覚悟なしにはできない。そしてこのアメリカの絹輸入は、日本の日の浅い貧弱な産業構造の不可欠の基礎をなしているのである」と観察していた。専門家たちは、日本は弱体な経済的政治的構造に苦しんでいると結論したのである。彼らは石炭と鉄に不足する日本は、強力な産業基盤に不可欠なものを持っておらず、それ故にアジアにおける大英帝国になることは決してないであろうと判断したのである。ジョンソンは、第一次大戦によって人為的に刺激された日本経済はじきに決算日を迎えることになるであろうと考えていた。彼は、中国かソ連かが「立ち上がりさえすれば、日本を路上の昆虫のように踏みつぶすであろう」と予言した。」(226~228)
→マクマレー、ジョンソンという2代にわたる駐中国公使/大使、しかもその前ポストがそれぞれ、国務次官補、極東部長であった二人の眼中に日本など存在しないに等しかった、ということは衝撃的です。
 日本の外務省の外交官達が怠慢で、彼らのカウンターパートたる米国の国務省の外交官達に碌に日本についてインプットしていなかったせいもあるのでしょうが、マクマレーらは、日本の自由民主主義についても経済についても軍事についても、馬鹿にし切っていたわけであり、そんな彼らの情勢分析に基づいて、米国政府は東アジア政策を策定し推進したのですから、それが日本に全く配慮しない厳しいものになって日本を窮地に追い込んで行ったのも当然でしょう。
 それにしても度し難いのは、彼らは、これほど重視していた支那についてすら、何も分かっていなかったことです。
 マクマレー<(注27)>の「中国かソ連かが「立ち上がりさえすれば、日本を路上の昆虫のように踏みつぶす」ことを期待しているかのような言がそのことを示しています。
 彼には、ソ連、すなわち赤露の恐ろしさも、また、その赤露が支那を勢力圏に収めるべく謀略の限りを尽くしていたことも、全く見えていなかったわけです。
 (注27)John Van Antwerp MacMurray。1881~60年。東京領事館参事官:1917~21年。国務省次官補:1924~25年。駐中国公使:1925~28年。その後駐エストニア公使兼駐ラトビア公使兼駐リトアニア公使、そしてトルコ大使を勤めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC (英語ウィキペディアは存在しない!)(太田)
(続く)