太田述正コラム#4532(2011.1.31)
<日英同盟をめぐって(その3)>(2011.4.25公開)
4 イアン・ニッシュ(Ian Nish)「同盟のこだま–1920~1931年の日英関係」
 「1920年、・・・ロイド=ジョージ<(注4)>やカーゾン卿<(注5)>を含む現実主義者は、日本の<第一次世界大戦での>戦争協力に感謝し、<日英>同盟の継続に好意的だった。・・・同盟更新に反対する・・・自由主義者や公開外交の信奉者<たる>・・・者には、アメリカとの海軍協定を望むウィンストン・チャーチルやリー卿<(注6)>などがいた。彼らは英連邦諸国やアメリカの考えに影響され、中国やシベリアでの日本の活動に不満を抱いていた。
 同盟では海軍問題が常に重要だった。1921年6月、英国内閣は次の様な理由でシンガポールに基地を建設することを認める決議をした。
 日本と戦争になれば、集結、補給、修繕基地としてシンガポールを使うことが英国の 主要艦隊にとって非常に重要である。さらに、この港が敵の手に落ちるようなことになれば、西太平洋の英国艦隊と軍事行動をともにすることや、オーストラリアやニュージーランドと海上での連絡船を維持することが計り知れないほど困難になるのは明らかである。 この決定の基にあったのは、近い将来の日本の行動に対する懸念というよりは、おそらく、帝国防衛の必要だったろう。」(251~252)
 (注4)コラム#597、1893、2305、2410、2987、3222、3282、3770、3772、4508で登場している。一筋縄で捉えられない人物。
 (注5)George Nathaniel Curzon, 1st Marquess Curzon of Kedleston。1859~1925年。最初の妻も2番目の妻も米国人。当時は外相。
 (注6)Arthur Hamilton Lee, 1st Viscount Lee of Fareham。1868~1947年。妻は米国人。当時は海軍大臣(First Lord of the Admiralty)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Lee,_1st_Viscount_Lee_of_Fareham
→当時チャーチルは陸軍大臣兼空軍大臣でしたが、彼は根っからの反日主義者であったのかもしれません。
 彼の母親は米国人であり、
http://en.wikipedia.org/wiki/Winston_Churchill
チャーチルは、この母親を通してできそこないのアングロサクソンたる米国の当時の人種主義的帝国主義の影響を受けていたのか、と言いたくなります。
 ただし、チャーチルが、当時から、赤露に対して極めて強硬な姿勢であった(チャーチルのウィキペディア上掲)という点では、彼はイギリス人の鑑であると言えるでしょう。 なお、シンガポール基地建設(コラム#4388)についてのニッシュの評価は間違いではないのでしょうが、英国の閣議決定にあたっての「日本との戦争」への言及が、(ほとんど何の役にも立たなかったという意味で)実に皮肉な(しかし、まさに日本との戦争にあたって焦点となったという意味では)自己実現的予言となってしまったことを我々は知っています。(太田)
 「アメリカが英国に同盟破棄を迫ったという考えをよく耳にする。だがこの意見は、同盟がすでに何年にもわたって弱まりつつあったことを無視している。」(253)
→この主張を裏付ける説得力ある典拠をニッシュは示していません。(太田)
 「1925年・・・英国は・・・中国人によって自国と同様に帝国主義との烙印を押された日本と提携しようと努力した。しかし、・・・渋沢栄一や在中国の日本の商業団体の一部は英国と日本・・・二カ国の協調の必要性を語った。しかし<日本の>外務省は・・・介入には消極的だった。・・・
 英国はこの地域での日本の「重要な役割」を受け入れ、・・・英国は、コミンテルンの工作員の中国での活動を日英両国ともに嫌悪し、それに不信を抱いていたので、日本を説いて支持を得られることを望んだ。しかし、・・・幣原<外相>は、・・・中立と単独行動という政策を維持した。・・・
 英国内閣<にとって、>・・・中国問題・・・<は>少なからぬ利権が関連し<ており>、・・・<決して>世界の果ての些細な問題ではなかった・・・。<蒋介石による>1926年夏の北伐の開始によって焦点は香港・広州地域から揚子江流域に移り、難題はますます増加した。・・・
 <結局、>英国は1926年の下半期にはしだいに独力で問題を解決しなければならないという結論に達した。英国外務省は、中国に対する譲歩という独自かつ現実的な姿勢を示し、条約改正を国民党と交渉する意思があるとの宣言を盛り込んだ12月メモランダムを発表した。」(256~257)
→既に何度も取り上げてきた、日英関係の転換点です。
 日英離間をもたらした責任は、一義的に、幣原喜重郎、ひいては日本の外務省が負うべきでしょう。(太田)
 「<その頃から>英国外交官と前線にいる英国人の間の溝は広がりつつあった。・・・
 天津の英国租界社会は日本の活動を自分たちへの脅威とは考えず、それに敵対的だったようにはみえない。英国人社会にも日本人社会にも、租界の納税者のために運営される自治当局のある開港場を維持するという共通の関心があった。その点で両者とも国民党の中国人に疑念を抱き、時には彼らに明確に敵対的であったし、治外法権にすがりつくことで、自分たちが国民党から保護され続けることを望んだ。<中国の英国人社会>は1922年までの青島に対する日本の貢献を擁護し、中国の支配下に復帰してからの青島港の治安の悪化を批判した。一方、天津の日本租界を批判することはなかった。彼らは英国政府の無作為と軟弱さには批判的で、中国ナショナリズムに屈することには真っ向から反対した。・・・これは1924年から1927年の幣原の政策に対する<日本の>経済界、軍の反応(軟弱外交)になんと似ていることだろうか。
 <しかし、英国の「軟弱外交」も一向に功を奏さないことから、>英国は、国民党のなかの共産党員の活動に対処するため、・・・防衛軍を<上海の>共同租界に派遣することを決定した。・・・
 チェンバレン<外相>は・・・出兵に反対している日本の歓心を買うため派遣軍を香港に留めておきたかったが、閣内の強硬派に投票で敗れ、インド旅団は北上を命ぜられた。・・・
 この派遣によっても<1927年>3月24日の南京事件<(Nanjing Incident)(注7)>は防げ<なかった。>」(258~259)
 (注7)南京の劣勢の国民党軍が優勢な共産党軍によって攻撃された際に、国民党軍と共産党軍双方が南京の外国人を襲撃して起こった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nanjing_Incident
→在支英国人達、就中在華北英国人達は、在支日本人達や帝国陸軍に親近感を抱き、同様の支那観を抱くに至っていた、ということです。
 日英同盟廃棄に賛成していた彼らが、このように180度姿勢を変えた理由は、やはり、中国国民党や中国共産党、更には赤露の本質が彼らにはっきり見えてきた、ということではないでしょうか。
 他方、幣原を始めとする日本の外交官達の目は曇っていた、ということになります。(太田)
 「英国は独力で率先して共産主義者に対抗してきたが、・・・<なお、>幣原は英国との提携を拒否した。ただし、日本は揚子江上の艦艇からの砲撃は認め、漢口の日本人居留民を守るために陸戦隊を上陸させた。南京事件の補償に関して日本が中国と交渉した際、日本は英国には「非常に穏健な条件」と思われるものを提示した。対照的に英国は中国に対する厳しい方策を要求し、制裁を科すことすら検討した。・・・
 幣原が<1927年>4月17日に外相の職を去った時、英国外務省は安堵した。・・・
 ロンドンの参謀本部の日本専門家F・S・G・ピゴット陸軍大佐<(注8)>が、・・・自分は日英同盟の喪失を嘆き、英国はたとえ同盟を復活させることができなくとも、それを「世界大戦勃発前のフランスとの協商と似た成文化しない日本との協商によって」置き換えるべきだと考えると・・・述べたのはこの時である。」(260~261)
 「<新首相兼外相の田中義一は、1928年、>英国との提携を深めようと<して、>・・・9月・・・長老政治家内田康哉を・・・ロンドンに赴かせ・・・チェンバレンの<病気>不在中の外相代理だったクッシェンダン卿<と話をさせた結果、>北京駐在の両国の公使は、とくに双方とも関心のあるすべての問題を討議する際、互いにごく密接な連絡を保つように指示された。・・・
 <「1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧<し、国民>党および<国民>政府の実権を掌握」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
した蒋介石(Chiang Kai-shek。1887~1975年)は、上述したように、同年9月に北伐を開始し、> 東北三省を含めて中国を統一し、南京を新首都とした<ところ、この>国民政府を英国は1928年12月に承認した。しかし日本の動きは遅かった。・・・7月には、北京と天津の中国人ボイコット組織が反日行動を強化していた。中国商人は日本品の販売を非合法と宣言し、天津日本租界の封鎖すら語られた。これは日本と中国の深刻な摩擦の始まりとなるものであった。この時も天津の英国人社会は、ニューズレターの次のような表現を見ると、日本の立場に与していたように思われる。「どうして日本政府がこの種の無法を許す中国政府と関係を維持したり、いわんや条約改正交渉をすることができるのかわからない」。」(262~263)
 (注8)コラム#3983、4255、4257、4270、4272、4274、4281、4304、4388、4390、4392、4394、4487、4502。
→英側では(いささか軽量ですが)ピゴットや在華北英国人達、日本側では陸軍OBたる田中義一に象徴される帝国陸軍、がそれぞれ日英同盟精神の回復に腐心したけれど、既に英日両国のボタンの掛け違いは修復不可能な状況になっていたのです。(太田)
 「ラムゼイ・マクドナルドが率いる労働党は1929年6月に政権に復帰し、日本ではその翌月民政党内閣が成立した。幣原は、7月初めに第二期目の職務を開始するため外務省に復帰した・・・。
 危機は5月27日、ソ連在ハルビン総領事館の襲撃と、電報電話線の破壊によって始まった。7月10日に、中国が東支鉄道の100人移譲のソ連人職員を拘束し、代わりに白系ロシア人を職務につけたことによって危機は深まった。・・・7月19日にはソ連の鉄道と関連資産が接収され、中ソ関係は断絶された。・・・
 ソ連は、・・・11月後半に・・・国境の満州里で越境を開始した。中国人は・・・完敗した。・・・
 日本の反応は表面的には穏和で寛大だった。日本は、ソ連の前進が東北侵略の真剣な意図によるものではなく、単に中国人に「交渉の開始を促す強硬な手段」だと考えた。・・・日本政府はケロッグ-ブリアン条約の提案国たるアメリカとフランスのように正式に警告すること<を>拒否し<た。>・・・
 日本に危機感がなかった理由は完全には明らかでない。日本のソ連との関係は友好的ではなかったが全般に平穏で、幣原はその状態が続くことを望んでいた。」(266)
→再び外相となっていた幣原が、いくら蒋介石政権(の名を借りた満州軍閥)が無法なことをやったとはいえ、赤露の明白な侵略行為を厳しく咎めなかったことは、日本の赤露脅威論の本気度を疑わせることにつながる大失態でした。
 これで、日英同盟精神は完全に息の根を止められた、と言っても過言ではないでしょう。(太田)
 「英国の姿勢は1931~32年の満州事変と上海事変後急激に変化した。・・・
 <しかし、>この際も華北の<英国の>経済界の意見は次のような穏健なものであった。
 日本の(東北への)介入<については、>・・・中国人が全くの無責任と多方面にわたる関係悪化政策によって、これを自ら招いたのである。・・・」(273)
→在華北英国人達が最後まで帝国陸軍の支那大陸における行動を支持し続けたことを我々は忘れないようにしたいものです。(太田)
 「1930年代になると<日英>同盟の<事実上の復活の>こだまはあまり聞こえなくな<ったが、>英国では、この主張は少数派や右翼から聞こえてきた。日本では、何人か、とくに陸軍と関連のある者が依然として頑張っていた。
 外務省<の中にも>東郷茂徳<(注9)のように、>1933年4月の詳細な覚え書きで、・・・英国と一緒に行動し、日本の外交目的のために英国との協調を使う望みを抱いてい<る者がいなかったわけではない。>」(274~275)
 (注9)1882~1950年。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘が拉致、連行した朝鮮人陶工の子孫であり、父親朴寿勝は陶工。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3
→吉田茂を始めとして英国追従者は外務省に少なくありませんでしたが、ニッシュが東郷だけをわざわざあげたのは、東郷が東大の独文学科卒であり、ドイツに二度赴任(二度目は駐独大使)で妻はドイツ人であり、米国勤務はあったが英国勤務はなく(ウィキペディア上掲)、いかなる意味においても吉田らのような英国事大主義者ではなかったからではないか、と私は想像しています。(太田)
(続く)