太田述正コラム#4544(2011.2.6)
<日英同盟をめぐって(続)その5)>(2011.5.1公開)
5 イアン・ガウ「英国海軍と日本–1921~1941年」
 「1919年には英国海軍の計画立案者にとって、米国海軍が唯一の関心事であり日本海軍は「独立したパワーとしても、または、いかなる連合国の一員としても」脅威とは感じられていなかった。しかし、20年の軍令部長<への>ビーティー<(コラム#4163、4538)>の就任により変化が生じた。かれは日米両国の海軍費支出の英国との著しい格差に注目し、「日本の海軍力は米国と並ぶ脅威である」と<ロイド=ジョージ>首相に進言し、艦艇建造において日米に後れをとれば、「大英帝国は三流海軍国に後退する」と指摘した。・・・
 21年1月に、日本はオーストラリアに対し長距離作戦を実施しそうにないが、香港は利用あるいは取引のために攻略する可能性があると想定した対日戦争計画が立案された。シンガポール攻略は可能ではあるが、実施の可能性は低いと見積もられていた。」(96)
→英海軍は、英国流オレンジ計画を、何とまだ日英同盟が存在していた1921年に、早くも策定していたというわけです。(太田)
 「日本に対する海軍の懸念は効力を徐々に失って行った<が、>・・・1926年に・・・英国海軍は在華艦隊を強化し、艦隊演習と研究も続けていた。しかし、チェンバレン<外相>もチャーチル<蔵相>と同様、海軍が対日戦にとりつかれ、対日戦が差し迫っていると妄想していると見ていた。
 ・・・<早くも>20年<に>日本海軍関係者の空母イーグル見学と、航空顧問団の派遣に対<して>海軍省<は>拒否<していたが、>・・・<26年には>日本が巡洋艦古鷹<(注2)>に関する情報提供要求を拒否したため、チャットフィールド<(Alfred Ernle Montacute Chatfield。1873~67年。最終的には男爵・元帥)軍令部長
http://en.wikipedia.org/wiki/Ernle_Chatfield,_1st_Baron_Chatfield
>は日本の海軍士官の海軍大学造船官課程への留学を拒否した。」(96、100~101)
 (注2)「列強の15cm砲搭載軽巡洋艦を凌駕する巡洋艦として、20cm砲6門を搭載し相応の防御力を有した8,000トン級巡洋艦」。起工1922年、就役1926年。「ワシントン軍縮条約では巡洋艦は排水量10,000t以下、砲口径5inch以上8inch以下と定義付けられたが、保有制限はなかった。その為、当初の計画では14センチ砲搭載の予定を20センチ単装砲6基6門に変更された。結果、<巡洋艦としては>当時抜きに出た・・・攻撃力を持つことになった。その後、ロンドン軍縮条約によって<日本が狙い撃ちされ(?)>排水量に関わりなく6重巡洋艦とされて保有制限を受けたため、搭載砲塔が条約ギリギリの20.3センチ連装砲に換装された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%B7%B9_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
→英海軍が示し始めた敵意に帝国海軍も敵意で返し、それがエスカレートして行った、ということです。(太田)
 「1928年・・・に国王<ジョージ5世>が在華艦隊司令長官に「如何なることがあっても日本を丁寧に扱え」と語っ<ていたというのに、>・・・同じ時に地中海艦隊は日本に対処するため、シンガポールに艦隊を派遣する演習を再び行った。また、同じ年に海軍省は在華艦隊を強化する目的で、巡洋艦3隻と可能ならば空母1隻を派遣することを認める決定をした。」(102)
→歴代英国王の親日家ぶりを我々は忘れないようにしましょう。(太田)
 「1932年1月、・・・発生した上海事変<における、当初の>日本人が非能率であるとの見方は、・・・日本軍の迅速、効果的な上陸作戦を目撃した英艦サフォークの報告によって揺るがされた。日本軍は兵士1万名、大砲6門、戦車15台、武装自動車、防空機関並びに軽飛行機12機の陸揚げに6万6000トンの船舶しか使わなかった。サフォークの観測では英国海軍は同じような作業をするのに21万5000トンの船舶が必要であった。」(106、107)
→せっかくの情報が活かされることはなかったようです。(太田)
 「<既に第二次世界大戦が始まっていた19>40年初頭、日本本土が眺望できる海峡での臨検を禁止する命令にかかわらず、英国海軍は富士山が見える海域で浅間丸を停戦させ、乗船していたドイツ人徴兵適齢者を捕えるという日英間の外交事件を引き起こした。」(112)
→英海軍の傍若無人な行動に慢心が表れています。(太田)
 「英国海軍情報機関と海軍省は、・・・日本海軍の戦略、作戦計画、技術力および強大な戦艦の実際の性能に関し、ほとんど新しい情報を掴んでいなかった。・・・海軍省は・・・チャーチルほどナイーブでなかったものの、日本人を甚だしく過小評価していたことは確かであった。」(116)
→その結果が、太平洋戦争開戦直後の1941年12月10日のマレー沖海戦における、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスの日本海軍機による撃沈でした。
 「アーノルド・J・トインビーは、毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べた。「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6 
 「この撃沈の報告を聞いた首相チャーチルは、「あの艦が!」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA_(%E6%88%A6%E8%89%A6) (太田)
6 ジョン・フェリス「英国陸・空軍から見た日本軍–1900~1939年」
 –陸軍篇–
 「英陸軍省は第一次日英同盟の締結にそれほど大きな影響を与えなかったが、日英同盟のお陰で、ほぼ30年にわたって同省が悩まされてきたロシアとの戦略的な問題は解消した。そのためか、陸軍省は日英同盟ならびに日本の軍備の質的向上の最も熱心な支持者であった。・・・
 1914年には日本陸軍は強力で近代的な陸軍と見なされるようになっていた。しかし、第一次世界大戦によって生じた軍事革命を見逃したため、日本陸軍の評価は下がっていった。戦間期を通して日本陸軍は西洋先進諸国の陸軍とは根本的に異なっていた。・・・日本陸軍はどの国の陸軍よりも運動戦を好み、兵員の消耗を軽視し、火力と統合戦闘よりも行動の迅速さや機動性をはるかに重んじていた。・・・
 日本陸軍は広大未開なアジア大陸で対面積戦力比、火力水準、頑強さおよび指揮能力において程度の低い敵に対処するべく編成されたのである。したがって統合的な攻撃よりも作戦を重視するのは合理的であろう。だが、日本陸軍はあらゆる敵が中国軍同様に拙劣であるとの錯誤を犯してしまった。日本陸軍は第二次世界大戦中に欧米の戦闘を支配した機械化された火力の開発を怠ったので、敵がヨーロッパ的な水準の対面積戦力比と物資をアジアに転用すると、完膚なきまでに圧倒されてしまったのである。それでも、日本陸軍の戦術と作戦は効果的で、アジアの軍事状況によく適合しており、たとえ頑強な敵にとっても危険なものであった。物資を除けば日本陸軍は世界中のいかなる優秀な陸軍にも劣らなかった。」(121~123)
→帝国陸軍に対するおおむね的確な評価であると思いますが、帝国陸軍は英陸軍と戦うことは、太平洋戦争直前になるまでほとんど想定しておらず、限られた予算の中で、しかも支那における戦費に大きく予算をとられる中で、予算の最適配分を行ってきた、と言うべきです。実際、帝国陸軍が、ソ連軍に対しても、張鼓峰、ノモンハン両事件で互角の戦いをしたこと、太平洋戦争の初期、英陸軍に対して勝利を収めたこと、を想起すべきでしょう。(太田)
 「英軍は日本陸軍に関する優れた情報源を持っていた。駐日武官と日本陸軍の諸部隊や学校に数ヶ月配属され、現場の将兵や組織を観察してきた35名の語学将校たちである。・・・彼らはいずれも知的で、世間に蔓延していた人種差別・自民族中心主義には驚くほど無縁であった。・・・
 しかし、日本陸軍や東アジアにおける政策に関する陸軍省の公式評価がこれらの見解を忠実に反映していたにもかかわらず、それが英印軍には広く流布されず、また同軍の将校たちもこの問題を無視していた。1941年から42年にかけて、この弱点が長年にわたる情報分析の蓄積を台無しにしてしまったのであった。」(123~124)
→英海軍に比べて、いかに英陸軍が帝国陸軍、ひいては日本を的確に認識していたかが分かります。
 同じことが帝国海軍と帝国陸軍の英国認識についても言えます。
 やはり、よほど努力しない限り、海軍は国際感覚に疎くなる、と考えた方がよさそうです。(太田)
 「<当時流行っていた>「国民性」という概念<に基づき、>・・・遺伝的および環境的要素の組み合わせから、日本人は機械に対する素質と発明の才に欠ける一方、苦痛には極限まで耐えうる力と組織力を持ち合わせると見なされていた。そして英空軍と海軍の将校たちがこれら2種類の特質の前半の部分を重視したため、日本のパイロットと水兵を過小評価したのである。これに対して、英陸軍の将校たちは両方の特質をともに評価していたので、日本陸軍を時には賞賛し時には酷評した。つまり、日本陸軍の歩兵は高く評価されたが、技術的な兵種である砲兵と機甲部隊は批判の対象となった。」(126)
→私が、いわゆる日本人論(日本の国民性論)を評価しないのは、それが普遍的な概念と論理でもって説明されることのない、思い込み(イデオロギー)に他ならないからですが、さすがの英陸軍も、この種の思い込みから完全に自由ではなかったようですね。(太田)
 「中国在住の英国人批評者たちは、日本陸軍の質を相当に過小評価していた。ロンドンの観察者たちは日本陸軍を、基本的にヨーロッパの二流陸軍の範疇に入れていた。つまり、日本軍はドイツ軍とフランス軍の下に位置し、イタリア軍と大体同格で、ソ連軍には少々劣るというものであった。陸軍情報部はアジア的基準に基づいて、日本陸軍を定義した点で正しかった。日本に駐在する観察者たちは、この点で非常に正確な分析を行った。彼らによる評価と予測は異文化の境界を克服した軍事分析の模範といえよう。しかし、前記三者の分析は、いずれも日本の「国民性」の欠陥を強調する点で誤りを犯した。・・・
 こうした失敗とは裏腹に、英参謀本部は日本軍の力を正しく評価し、日本が敵よりも味方でいることを望んでいた。1920年から21年の間、陸軍省は政府のいかなる省庁よりも強く日英同盟の延長を求めた。1937年まで、陸軍省は日本を潜在的同盟国として見続けていた。同省は両国の間に根本的な利害の衝突がなく、かつソ連という共通の脅威があると考えた。日本がアジアの安定を維持してくれているため、英国はロシアと再興したドイツという、英陸軍の懸念する二大問題に容易に対処できると信じていた。」(131)
→まことに正論であり、この正論を帝国陸軍も英陸軍と共有していたわけです。
 その両者が相まみえなければならなかったとは、何という歴史の悲劇であったことでしょうか。(太田)
 「満州事変<後も>・・・<英陸軍>参謀本部は日本の脅威が差し迫っており、避けられないことを認めようとはしなかった。英国が満州における日本の拡張を認め、場合によっては日英同盟を復活して日本との友好関係の立て直しを行えば、日本の脅威を回避できると考えたからである。陸軍参謀総長デヴェレルは「日本との同盟、あるいは少なくとも日本と友好的な関係を保つことの強力な主張者」であり、「日本人は極めて繊細な人種で、あらゆる面で東洋的」なので彼らに恥をかかせてはならないと主張していた。
 また。陸軍省も外務省の対日政策に強く反対した。陸軍省の方針や日英両国に死活的な利害の衝突がないという同省の推論の適切性はともかくとして、その予測には先見性があった。1935年に入って陸軍省は政府内における影響力のすべてを駆使し、日英同盟の復活を試みたが失敗に終った。・・・
 英国は中国に敗北しないだけの援助を与える他に選択がないと考えたが、それは英国が日中「両国から嫌悪される」ことも理解していた。英陸軍省は英政府一般とは異なる対日姿勢を持っており、他の欧米陸軍よりも日本陸軍を高く評価していた。同省は日英両国の敵対を阻止することにも、日本の脅威に対抗できる力を持つことにも、そして自らの日本陸軍についての分析をアジアの英国陸軍に対して支配的影響力を持つ古参の中国屋たちに売り込むことにも失敗してしまった。」(132~133)
→同様、帝国陸軍も、国際感覚の希薄な帝国海軍、及び、度し難いほど職務怠慢であった日本の外務省、等に対し、(失敗に終わった)日英同盟の事実上の復活から始まり、(結果的には成功したけれど)満州事変の政府としての決行、そして(失敗に終わったところの)内蒙工作の政府としての決行や(結局実行されなかったところの)1940年対英のみ開戦、を売り込むこと、等に失敗してしまったわけです。(太田)
(続く)