太田述正コラム#4548(2011.2.8)
<日英同盟をめぐって(続)その7)>(2011.5.3公開)
<米内光政についての補足>
 米内の対英政策の180度転換は、彼個人というよりは、海軍の組織意思として行われたと言うべきでしょう。
 こうして、帝国海軍は、1939年初めには、英国との対決姿勢を明確にする海南島占領作戦実施を主張し、出兵を強行した(米内は海軍大臣)(ウィキペディア下掲)というのに、1940年・・米内は同年1月16日~7月22日、首相・・には陸軍の対英のみ開戦論を封じ込めるという、精神分裂的対応を行うわけです。
 以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF 
から、米内の事跡等を引用しつつ、私のコメントを付します。
 「<1933~1934年の>佐世保鎮守府参謀時代<の米内>は「暇つぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。 」
→ロシア文学を通じてロシア、そしてソ連を理想化した、戦前の日本の文学青年的な、素朴かつ未熟なソ連観を米内が抱いていた可能性が大きいことが推察できます。(太田)
 「<連合艦隊司令長官を経て第1次近衛内閣で海軍大臣であった際、>第二次上海事変<(注5)>で、出兵に反対する<(一度目の蔵相を務めていた)>賀屋興宣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B1%8B%E8%88%88%E5%AE%A3 (太田)
を閣議で怒鳴りつけて、<出兵を実現>・・・させた」
 (注5)「第二次上海事変とは、1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦である。
 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、この事件以後華中(中支)において拡大することになった。1932年(昭和7年)1月28日に起きた第一次上海事変に対してこう呼ぶ。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
 「<同じく>第1次近衛内閣で海軍大臣であった際、1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議において、蒋介石政権との和平交渉継続を強く主張する陸軍の多田駿参謀次長に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめ・・・アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させた」
 「豊田穣<(1920~94年。海軍出身の作家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E7%A9%A3 (太田)
)>などは<、これは>「米内があまりに陸軍に不勉強、あるいは予想以上に陸軍が海千山千だった結果・・・<である>」としている。」
→日支戦争の拡大を常に唱えたこと自体についてはともかく、米内が国際的反響などについて全く考えなかった点に彼の国内外政治音痴ぶりが表れています。
 なお、いかにも海軍出身者らしい豊田穣の陸軍を貶める米内批判は筋悪もいいところです。(太田)
 「<1940年1月に首相になった>米内は陸軍とうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあった事を明らかにした。」
→陸軍が米内に対して不信感があったのは当然です。
 なお、米内が、自己弁護目的で政府部内の意思決定過程をただちに公開したことは言語道断です。(太田)
 「畑は当時の陸軍参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、なぜか米内は辞表を受理した。 」
→しかも、米内はウソをついたのですから何をかいわんやです。(太田)
 「<米内内閣>倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日に立憲政友会正統派総裁久原房之助が同様の要求を行って拒絶されると、内閣参議を辞職して<いる。>」
→米内が、当時の政治家、ひいては世論の反発の対象となったのもまた当然である、と言うべきでしょう。(太田)
 「同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、<1944年に再び海相となっていた彼が、>終戦間際に井上成美海軍次官を大将に昇格させた上で次官を辞任させ、後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事<は批判されている。>」
→人を見る目や、政治的布石を打つ能力に米内は欠けていたということです。(太田)
 「海軍軍人の政治音痴・政治嫌いは米内に限ったわけではなく、海軍全体の最大のネックとまで言われていた。」
→このくだり、典拠が必ずしも明らかではありませんが、当時、既に米内を始めとする帝国海軍の「政治音痴」ぶりは衆目認めるところであったようです。(太田)
 「<1945年>5月11日、ドイツ降伏直後に宮中で開かれた最高戦争指導会議における対ソ交渉について<、米内は海相として、>ソビエトからの援助を引き出すべきだと主張したが、ソビエトを軍事的経済的に利用できる段階ではもはやないと東郷茂徳外相に却下された。」
→同じくソ連駐在経験があり、同じく親ソでソ連政府を信用していた愚かな2人でしたが、米内の愚かさの程度は、東郷の比ではなかったようです。(太田)
 「鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾<(1887~1945年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE (太田)
)>は終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して8月14日、自害した」
→この言葉、私は共感するとともに、重く受け止めています。その理由を改めて説明する必要はありますまい。
 阿南は、帝国陸軍の代表として敗戦の責任をとると同時に陸軍のクーデター的な動きを抑えるために自害したというのが通説(ウィキペディア上掲)ですが、米内は、帝国海軍の代表として、かつ(陸軍ほどの懸念はありませんでしたが)海軍のクーデター的な動きを抑えるためのみならず、米内個人としての敗戦責任の観点から、阿南より以上に自害に値しました。(太田)
 「マッカーサーの秘書官フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び「天皇が何ら罪のないことを日本側が立証してくれることが最も好都合だ。そのためには近々開始される裁判が最善の機会だと思う。この裁判で東条に全責任を負わせるようにすることだ。」と語り、米内は「同感です」と答えたと言う。」
 「戦後の東京裁判では証人として・・・出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。
 その上で、満州事変、日中戦争、日米開戦を推進した責任者として、土肥原賢二、板垣征四郎、武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、東條英機の責任については言明する事がなかった。」
→天皇免責のためではあっても、それが自分自身及び自分の出身組織を正当化するものであったことも事実です。
 証言内容は、米内の本心だったのではないでしょうか。(太田)
 「昭和16年(1941年)10月に近衞文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と岡田啓介で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。 」
→こんな事情があった以上、米内は東條に批判的な証言はできなかったと考えられます。
 これも、証言全体が米内の本心であったことの傍証になります。(太田)
(続く)