太田述正コラム#4550(2011.2.9)
<日英同盟をめぐって(続)(その8)>(2011.5.4公開)
8 等松春夫「日本陸軍の対英戦争準備–マレー進攻作戦計画を中心に」
 「1940年初夏から41年冬にかけての1年半は、日本陸軍にとり新事態への対応に追われる日々であった。1940年春のドイツの西ヨーロッパ征服により英仏蘭の東南アジア植民地には権力の空白が生じ、南方資源地帯をめぐる対英米戦争の可能性が急速に浮上した。建軍以来常にシベリアおよび中国大陸における作戦行動を想定して編制・訓練を続けてきた、いわば北向きの軍隊が急遽南へ進むこととなったのである。」(198)
→天津租界問題によって日本国内で反英運動が大々的に展開された頃(39年6月)(コラム#4274)までに対英開戦を想定した本格的準備に着手していてしかるべきだったのに、帝国陸軍にして、1年以上、遅れをとったことになります。(太田)
 「日本陸軍が本格的に東南アジアのモンスーン地帯で、英軍と戦う可能性を考え始めたのは1940年も末、日英開戦のわずか一年前であった。大海軍国としての英国認識は明治以来日本陸軍のみならず日本人全体が抱いてきたが、英陸軍に対する評価は概して低調であった。1922年の日英同盟の解消により、従来の親英感情は徐々に冷却していくが、英国そのものが日本の仮想敵国となるのはさらに後年の、1936年の「帝国国防方針」の第三次改定によってであった。それでも日本陸軍の主敵はあくまでもソ連赤軍であり、英国の位置づけはソ連、米国、中国に次ぐ仮想敵国の第4位を占めるにすぎなかった。日本陸軍は作戦計画、編制装備から教育訓練にいたるまで、北進・シベリアの極寒地において赤軍と戦うことを想定しており、1932~33年に教育総監部が作成した『対ソ軍歩兵戦闘』『対ソ戦闘法要綱』は、一時期日本陸軍の全教育訓練を支配した感さえあった。日中戦争の激化に伴い、英米との関係が悪化していってもこの傾向は変わらなかった。これは世界最強のソ連軍を想定した準備をしていれば、他の劣等な陸軍の撃破は容易であると考えられたからであった。また日本陸軍が英陸軍と対戦するとしても、それはヨーロッパや中東の開放された平野、または沙漠における野戦とはならず、英領香港、天津、上海などの中国各地の英国租界の占領、または東南アジアの英植民地におけるジャングル戦になると考えられたことも、対英作戦計画が真剣に検討されなかった一因であったといえよう。」(199)
→帝国陸軍の頭の切り替えが遅れたことの説得力ある説明になっていません。
 英国が仮想敵国となった以上、1936年中に、最低でも、対英作戦計画策定に着手していてしかるべきでした。
 考えられるのは、一つには、帝国陸軍が元来日本政府部内で一番親英であっただけに、ただちに対英作戦計画を策定することまで踏み切れなかった、二つには陸軍が政府部内で「孤立」していて、かかる作戦計画策定について帝国海軍の協力が得られなかった、といったあたりではないでしょうか。(太田)
 「1940年夏以降、日本陸軍は日英戦争の可能性を検討し始めたが、同じ頃ドイツからシンガポール攻略の示唆があったことは興味深い。1940年夏の英本土航空決戦(Battle of Britain)で英空軍の撃滅に失敗し、英本土上陸の見通しが立たなくなったドイツは、英本土への封鎖を強化する一環として、9月末の日独伊三国同盟締結直後から日本政府・軍部内の親独派に対し、シンガポール攻略の説得を始める。オット駐日ドイツ大使の信任を得ていたソ連スパイ、ゾルゲによると、1941年1月に東京のドイツ大使館内で一週間にわたりオット大使、陸海空軍駐在武官らにより、日本陸軍によるシンガポール攻略の可能性が検討され、タイ領から陸路マレー半島を南下すれば、成算ありとの結論に達した。オットはこの結論をもって参謀本部と軍令部に、シンガポール攻略の検討をはたらきかけた。またドイツ本国においても、1941年2~3月にリッペントロップ外務大臣、ヒトラー総統から大島浩駐独大使および訪独した松岡洋右外務大臣に同様の説得が試みられた。同じ頃に陸軍航空総監として軍事視察団を率いて滞独中の山下奉文中将(開戦時にマレー・シンガポール攻略担当の第25軍司令官)もドイツ参謀本部員から同様の示唆を受けている。
 必ずしも<この>ドイツの説得に応じてではなかったが、・・・まず1940年12月に、大本営の命令により台北の台湾軍司令部内に南方熱地作戦を担当する研究部が置かれた。・・・
 <同>研究部は翌1941年4月、・・・報告書を参謀本部に提出し、<これ>・・・を基にして6月中下旬に海南島において上陸作戦と熱地行軍の演習が行われた。・・・
 平行して実戦部隊・・・第5・・・<(広島。>昭和初期より・・・上陸作戦専門の師団<であり、1941年初頭に機械化師団に改編>)>・・・、第18<(久留米)>および近衛<(東京)>の3個師団<(機械化師団)>・・・<更には>第48師団<(マレー作戦には参加せず)>・・・の選定、・・・作戦目的に適した編制装備への改編、演習と訓練、必要とされる軍需物資の集積が進められた。・・・
 当時英陸軍の標準的師団は75ミリ以上の火砲を72門保有しており、これは日本陸軍の標準的師団の保有火砲数の2倍であった。これに対抗するため、第25軍<の>・・・火力が<上述のように>強化された。<また、>・・・多量の架橋資材を携行し、英軍に破壊された橋梁の復旧能力をおおいに向上させ・・・た。<更に、>・・・性能面では同時期の欧米列強陸軍の戦車にやや見劣りしたが、・・・戦車と一般師団の装甲車両は、自動車化された歩兵・砲兵・工兵とともに集団的に使用され、小規模ながらドイツ陸軍の電撃戦を彷彿とさせる突破力をマレーの戦場において発揮することとなった。・・・
 第25軍の総兵力は・・・人員12万5408名、車輌7320台、馬1万1516頭、口径75ミリ以上の火砲183門、高射砲60門に上った。これに対するマレー・シンガポールの英軍戦力を、大本営は陸上兵力約6~7万、航空機約320機と算定していた<(注6)>。」(199~204)
 (注6)実際のマレー作戦(1941年12月~42年2月)はどうであったのかを、この際、まとめておこう。
A:http://en.wikipedia.org/wiki/Malayan_Campaign
B:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BD%9C%E6%88%A6
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Singapore
D:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
一、マレー作戦(Battle of Malaya)(A。<>内はB)
 戦力 日本:70,000人<35,000人(緒戦からの参加兵力。増援兵力を含まない)>
       航空機568機<617機(陸海軍機。予備機を除く)>
       戦車200両<記述なし>
       <重巡5隻基幹>
    英国:140,000人<88,600人(緒戦からの参加兵力。増援兵力を含まない)
      =イギリス兵19,600+インド兵37,000+豪州兵15,200+その他16,800>
       航空機158機<246機(空軍機)>
       戦車0両<記述なし>
       戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルス基幹<一致>
 死傷 日本:死亡1,793人
       負傷3,378人<2,772人>
    英国:死亡5,500人<5,000人(遺棄死体)>
       負傷5,000人<12,000人(遺棄されなかった死亡者を含む)>…この差は
      不明。
       捕虜40,000人<8,000人>…この差は逃亡者か?
二、シンガポールの戦い(Battle of Singapore)(C。<>内はD)
  戦力 日本:36,000人<一致>
     英国:85,000人<一致>
  死傷 日本:死亡1,713人<1,715人>
        負傷2,772人<3,378人>
     英国:死亡3,500人<5,000人>…この差については、負傷の記述がない点と併       せ、後述。
        負傷0<記述なし>
        捕虜80,000人<一致>
→日英の対立の先鋭化とそれに伴う日本国内の英国感情の悪化、既に欧州で始まっていた第二次世界大戦の戦況、等から、1940年夏には、ナチスドイツと日本がそれぞれ日本による対英戦を想定するようになり、日独ともその焦点がマレーであると考えていたところ、当然、英国も同じことを考えていたはずであり、にもかかわらず、後述するように英国の対日戦準備は全く不十分なまま推移し、英軍は大敗北を喫してしまいます。
 これは、既述したように、英国政府が、英海・空軍の人種差別的日本軍蔑視意識に毒され、英陸軍や駐日英大使館の警鐘を無視・軽視し、これと相俟って対独戦を優先したためです。(太田)
 「大本営陸軍部は『これだけ読めば戦に勝てる』という小冊子を作成、40万部以上を印刷し、マレー戦のみならず南方作戦に従軍したすべての将兵に配布した。・・・この小冊子は徹底した実用性に貫かれており、各部隊で作戦開始の直前教育に活用された。・・・
 <この小冊子や山下軍司令官の・・・訓辞>に一貫しているのは、英本国・白人自治領出身の将校と、植民地出身の下士官兵の間には団結心が欠如していること、白人兵は兵器等物的要素に依存し過ぎ戦闘精神に欠けること、したがって世界最強のソ連軍を想定して訓練を重ねてきた日本陸軍にとっては、英植民地軍<(英印軍)>ごときは鎧袖一触であるという考え方である<(注7)>。」(205~206)
 (注7)マレー作戦の結果、帝国陸軍は、「英印軍<は>・・・「中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する」(牟田口中将)という認識を持った。」(B)
→後に兵站と物量の軽視(より端的には不足)によって、帝国陸軍は英印軍に臍を噛むことになるわけですが、マレー作戦/シンガポールの戦いに関する限り、短時間でかくも周到な準備をした帝国陸軍の戦果に対して、率直に敬意を表するべきでしょう。(太田)
(続く)