太田述正コラム#4560(2011.2.14)
<日英同盟をめぐって(続)その13)>(2011.5.9公開)
 –お断り–
 本シリーズの典拠本の掲載論文、みんな面白い・・当該論文が面白いだけでなく、thought provoking である・・ので、XXXXさんにお願いして、この本の残りの部分のコピーも送ってもらいました。
 毎度のご協力、まことに頭が下がります。
 さて、予想はうすうすしていたのですが、この追加分の論文数本を読んだところ、どれも面白くない・・その理由は様々ですが・・ことが分かりました。
 XXXXさんの鑑識眼、大したものです。
 ただ、典拠付の論文のいいところは、それでも、断片的に使えそうな箇所があることです。
 せっかく送ってもらったので、そういう箇所をみつくろって、ご紹介することにしました。
9 ハーミッシュ・アイオン「開国前後の日英軍事関係」
 「英国の平戸商館が1623年に閉鎖された後、日英関係の回復は200年近くも妨げられていたが、それはヨーロッパの諸情勢に伴って、英国が東方海域の制海権を失ったことによる。1793年、英国政府はマカートニー子爵<(注8)>に清国への使節としての任務を終えたのち日本との関係を開くことを指示したが、英仏戦争の勃発によってその任を果たすことはできなかった。」(8)
 (注8)George Macartney。1737~1806年。「<国>王ジョージ3世<により>、清朝皇帝乾隆帝の80歳を祝う使節団として派遣され、1792年9月に・・・本国を出発し、翌年7月に清へ到達。イギリスからでは初の使節ということで歓迎され、9月に熱河離宮で避暑滞在中の乾隆帝に謁見する。・・・マカートニーは、朝貢使節が皇帝に対して行う中国式の儀礼である三跪九叩頭の礼(三回跪き、九回頭を地に擦りつける)をするよう要求される。彼はこれを拒否するが、最終的には清側が譲歩する形でイギリス流に膝を屈して乾隆帝の手に接吻することで落ち着いた。だが貿易改善交渉、条約締結は拒絶され、帰国した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC
→考えて見れば当たり前ですが、17世紀当時から既に東アジア情勢と欧州情勢とが連動していたことは、我々が忘れがちな視点ですね。(太田)
 「スターリング<英海軍>少将は・・・1854年・・・<に>ペリー<が日本と和親条約を締結して日本を開国させたの>に続き、ロンドンからの指示を待たず、同年秋に長崎で日本と英国との<和親>条約<(注9)>に関する交渉を始めた。・・・
 クリミア戦争の最中であり、スターリングの1854年における主要な関心事は、清国における英国の地位に対するロシアの脅威にあった。彼が日本との交渉に入った目的は、ロシアに先んじて日本の港や資源を利用することにあった。<ただし、>・・・スターリング<は>・・・ロシアとの交戦に消極的であった・・・。」(9~10)
 (注9)Anglo-Japanese Friendship Treaty。「クリミア戦争の敵国であるロシアの艦隊が長崎に入港している(日露和親条約交渉のためエフィム・プチャーチンが4隻の艦隊を率いて入港中であった<(コラム#4547)>)・・・との情報が得られ、英国東インド艦隊司令<官>ジェームズ・スターリングは、それを捕捉すべく長崎に向かった。1854年9月7日、スターリング率いる・・・イギリス艦隊・・・が長崎に来港した。すでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、スターリングは英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。このときの長崎奉行は水野忠徳であったが、・・・水野はスターリングも<前年浦賀に来航したペリー同様>外交交渉のための来航と考え、幕府に許可を求めた(スターリングは同年3月に日米和親条約が締結されたことを米海軍より入手していたが、外交交渉は任務に含まれていなかった)。・・・許可を得た水野忠徳及び・・・目付永井尚志が同年10月14日・・・、日英和親条約に調印した。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかった。しかし、日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。
 日本は先の日米和親条約で米国に下田と箱館の開港を認めていたが、この条約では長崎と箱館を英国に開放(条約港の設定)し、薪水の供給を認めた。また、治外法権・最恵国待遇などの規則も定められた。
 その後、ロシアやオランダとも同様の和親条約が締結され<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84
→ペリー初来日の翌年、日本は、事実上、クリミア戦争という、英露戦争に巻き込まれた、ということです。(太田)
 「日本が英国<に対して>・・・開港したしたことは、日本の北方領土や周辺の島々を、ロシアの手から護るのに役立った。英国海軍は北からのロシアの脅威を認識しており、特に北樺太を占有するロシアに南樺太・対馬・北海道の占拠を許さないことを重視した。間宮海峡への頻繁な艦艇の展開は、ロシアの活動に関する情報を提供するとともに、日本の領土保全を維持する役割りも果たした。1855年・59年・60年に英国海軍が行った日本海沿岸の調査は、同地域で水路測量調査をしていたロシアに対する監視の目的もあった。・・・
 徳川幕府と日英<修好通商>条約<(注10)>の交渉をするため<の>・・・エルギン卿の小艦隊は・・・長崎でも江戸でも丁重に迎えられた。<同小艦隊の>トリビューン号で長崎を訪れたノーマンは「彼ら(日本人)は実に高度に文明化している」としており、一部の英国海軍士官の間では日本人に対する尊敬の念が芽ばえていた。」(10)
 (注10)The Anglo-Japanese Treaty of Amity and Commerce。「1858年8月26日・・・、イギリス代表のエルギン伯爵ジェイムズ・ブルースと江戸幕府の間に調印された・・・不平等・・・条約」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
 ちなみに、タウンゼント・ハリスは、「アロー号事件をきっかけに清と戦争中(1856~60年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘してそれを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得し」、その1ヶ月弱前の1858年7月29日、日米修好通商条約を幕府との間で調印することに成功したもの。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
 ペリーは脅しで、ハリスは嘘で日本に言うことを聞かせた、というわけであり、日米関係は、最初から不幸な形で始まったと言えよう。
→その結果、ロシアを対象とする、片務的日英同盟が事実上成立するに至っていた、と見ることができそうです。(太田)
 「1862年1月に<英海軍の>オーディン号は、日本の遣欧使節一行を横浜からスエズへ運ぶ任務に就いた。日本人はオーディン号の指揮官によい印象を与え、これは英国海軍にとって日本との関係が良好であることを示す好ましい出来事だった。」(15)
→日英関係は、幕末、英海軍と日本との友好的雰囲気の下で始まったわけですが、後の英海軍とは大違いですね。
 当時、大英帝国が絶頂期にあったからこそ、英海軍は日本を正しく観察することができた、ということではないでしょうか。(太田)
10 淺川道夫「建軍をめぐる日英関係–幕末期から日清戦争まで」
 「外国人殺傷事件<等の頻発>・・・を背景に、居留民保護を名目とする英仏両国軍隊の横浜駐屯を、幕府は余儀なく承諾することとなる。<1862年から78年まで、・・・英国の部隊が横浜に駐屯した。(アイオン:16)>」(25)
→外国軍の駐留は戦後だけの話ではありません。英仏軍の基地が幕末から明治初頭にかけて日本に存在したわけです。(太田)
 「明治新政府・・・の軍戦備の基調は「北門の強敵」ロシアを意識しつつも、「即今の目途は内に在り将来の目途は外にあり」という形で「対内的、防勢消極的方面」に重点をおくものであった。」(31)
→明治新政府発足時から、日本の仮想敵国はロシアであったということです。(江戸時代中期以降、一貫してそうであったと言ってもよいでしょう。)(太田)
(続く)