太田述正コラム#4574(2011.2.21)
<日英同盟をめぐって(続)(その15)>(2011.5.14公開)
12 ジョン・フェリス「われわれ自身が選んだ戦場–アジアにおける日英戦争
(1941~1945年)」
 「英国はアジアにおける戦力の弱体を放置したまま必要以上に日本を挑発した。これは、日本の政治家たちは慎重で英米両国と同時に戦うような危険を冒すことはなく、日本が戦争に踏み切ることはないと考えたからで、このような対応は日本の航空戦力への誤った評価に基づいて形成されたものであった。」(209)
→とんでもない話であり、チャーチルは、日本政府が英米を一体と見ていると信じて、米国をして日本を挑発させて日本に対英米開戦をさせることに成功したけれど、これは、日本の航空戦力等への誤った評価から、英領マレー防衛が可能であると思い込んでいたことに発する大失敗であった、が正しいわけです。(太田)
 「<ただし、>香港島をめぐる攻防戦で、英軍守備隊は日本軍を海岸で阻止し、内陸部ではアジア太平洋戦争の最初の9ヶ月に日本軍が経験した最も 激しい戦闘へと追いこんだ。香港義勇軍、訓練未了のカナダ軍、スコットランド正規軍の残兵は、指揮系統が崩壊したにもかかわらず、優勢な日本軍の攻撃を4日間にわたって持ちこたえた。英軍守備隊は半数が死傷するまで戦い続け、ほぼ同数の敵に損害を与えた。これが可能であったのは、一つには 英軍砲兵が1944年以前では唯一、遮蔽されていない日本軍の目標を砲撃する機会を得たからであった。これら2500名の香港守備隊は、シンガポール島の3万5000名の英軍守備隊が日本軍に与えたのとほぼ同数の死傷を敵に与えた。・・・つまり、戦場の面積に対して適正な規模の兵力を配備し、勇敢な兵士を配すれば、最悪の情況でも英連邦軍は、日本軍の通常戦術によく対抗できたのであった。」(注11)(212)
 (注11)一体フェリスは何に拠ったのだろうか。数字も記述も途方もないものである。
 ちなみに、香港の戦いに関する英語ウィキペディアに拠れば、
 兵力:日・・52,000、英・・14,000
 戦死:日・・1,996、 英・・2,113(行方不明者を含む)
 負傷:日・・6,000  英・・2,300
 他方、日本語ウィキペディアに拠れば、
 兵力:日・・39,700 英・・13,000
 戦死:日・・705   英・・1,720
 負傷:日・・1,534  英・・記述なし(ただし、捕虜10.947)
となっており、ここでも英語ウィキペディアの方は、英軍がより健闘した形になっており困ったものだ。(敗者側、しかも全員捕虜になった側による記録は勝者側による記録より信頼性は低い、と見るべきであろう。)
 結局、香港においては、フェリスや英語ウィキペディアの記述とは異なり、(マレー/シンガポールの戦いとは逆に兵員数でも日本側が上回っていた以上、当然のことではあるけれど、)英軍は日本軍によって鎧袖一触であった、と断定してよかろう。
 なお、日本軍の犯した国際法違反を、英語ウィキペディアに拠って記しておく。
 1941年12月8日に香港攻撃を開始した日本軍は、18日、降伏した砲兵20人を虐殺し、更に捕虜にした衛生兵も虐殺した。25日には病院で入院していた負傷兵多数を医師等と一緒に拷問し、殺害した。
 これについては、日本語ウィキペディアには全く言及がない。
 その日、戦闘は終了したが、その後、3年8ヶ月続いた日本占領期間中に、香港の住民多数を殺害し、推定約10,000人の女性を強姦し、掠奪を行った。
 (強姦については、日本語ウィキペディアは、もっぱら朝鮮人軍属の行為であるとしている。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Hong_Kong
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B8%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 日本軍の司令官で、香港陥落後、暫時香港軍政庁長官を勤めた酒井隆(1887~1946年)陸軍中将は、10日間で香港を陥落させるよう命ぜられていたが、それを果たせず、18日もかかってしまったことからくるあせりが、彼に上記のような国際法違反を犯させた、というのが酒井に関する英語ウィキペディアの珍解釈だが、そもそも、「10日間・・・」の話が香港の戦いに関する日本語ウィキペディア(上掲)には全く出てこない。それどころか、「イギリス軍は半年間は持ちこたえる構えで食糧弾薬等を準備していた・・・が香港はわずか18日間で日本軍によって攻略された」という記述がなされている。
 ちなみに、酒井は陸軍きっての支那通であったが、終戦後、蒋介石政権の戦犯裁判で支那侵略の主な実行者の一人として死刑となり銃殺刑に処されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%9A%86
http://en.wikipedia.org/wiki/Takashi_Sakai
 「インパールにおいて勝利をもたらした空中補給能力は、米国が中国支援のために大量の航空機を供給して初めて可能となった。」(215)
 「日本陸軍はスリムが防御する飛行場を壊滅できず自滅した。スリムの全部隊と同時に交戦することにより、日本軍は英軍を一個のまとまった軍として戦わせることとなった。」(223)
 「日本軍は貧弱な補給力しか持たないまま、驚異的な長距離進撃を行ったが、このような行動の結果は、つかの間の勝利か惨敗かのいずれかであった。・・・インパール・コヒマでは、日本軍が自滅したのであって、英軍が勝利を勝ち取ったのではなかった。」(222)
→日本が1941年12月の時点でも対英開戦のみを行っていたとすれば、米国が対日開戦をしなかった可能性があり、その場合、日本軍がインドを 「解放」していた可能性が高い、ということです。たとえそうなっていたとしても、戦争そのものに勝っていたかどうかは疑問ですが・・。(太田)
 「スリムは・・・「日本軍ほど頑強で恐るべき敵は存在しなかった…。日本軍はよく訓練された敵であり、私の知るかぎり彼らは最後の最後まで戦った。どこの国の陸軍も最後の一兵まで、弾薬が尽きるまで戦うと言うが、これを実行するのは日本軍のみである」・・・と<評し>、日本軍を職業的視点から賞賛しており、憎悪や人種差別のみによる評価はなかった。」(220)
 「日本陸軍に対する英軍の公式の評価は日本兵を非人間視するものではなかった。むしろ日本兵が人間であること、どれほど彼らが英兵やインド兵に似ているかを強調した。・・・「・・・日本兵<は>胆力に富み、高い士気を有する天性のすぐれた戦士であり、理想と獣性が奇妙に混合している」・・・「日本兵は第一級の戦士である…、しかし日本兵とてわれわれと同様の人間的弱点を持っているので、日本兵を打ち破ることは可能であり、また打ち破らなければならない」と・・・。つまり、英軍は一般兵士の間に広がっていた劣等感を払拭しなければならず、日本兵を非人間的なものとして描くことは、日本兵を超人と見なす考えを増幅することになるのであった。」(221)
→人種差別意識に基づいて相手を蔑視したり、逆にスーパーマン視したりすることは、相手の客観的評価を不可能にするので、百害あって一利なし、ということです。(太田)
 「1941~45年の間、ヨーロッパと満州で戦うことを目的に作られていた二つの軍隊が東南アジアで激突し、どちらも対戦相手に比べてはるかに優れていることを示せなかった。日英両軍の均衡が保たれていた期間は非常に短かった。両軍の戦いは第二次世界大戦における最も一方的な戦闘の一つとなった。・・・当初は練度の高さが日本陸軍の切り札であり、後には物量が英軍の利点となった。
これらの戦いは、日英双方にほぼ同規模の損害をもたらした。とはいえ、英国の損害の大半は本国軍ではなく英連邦軍のものであった。」(226)
→フェリスは、どうやら「英連邦軍」にカナダ・豪州・ニュージーランド兵士を入れていないようですが、これぞ、インド人兵士に対する人種差別的蔑視を伴った負け惜しみという奴です。
 とまれ、米軍の助けを借りた英軍と、戦争の全期間を通じて互角の戦いをした、というわけですから、やはり、帝国陸軍は高く評価されてしかるべきでしょう。(太田)
 「インドにおける英国の軍事力は1943~45年の間に最大となり、それは対日戦の勝利と東南アジアにおける英国の勢力の復活をもたらす一方で、これらの諸部隊を維持することが英国の行政能力を越える負担となり、ベンガル地方の飢饉を悪化させ、インド帝国の崩壊を早めた。」(215、 216)
 「もし日本陸軍がビルマにおいて守勢を維持していたならば、敗れることなく終戦を迎えていたかもしれなかった。」(216)
 「インパールで何が起ころうとも日本はアジア太平洋戦争そのものに敗れていたであろう。シンガポールの陥落は英国により深刻な打撃を与えたが、 この事件の意義も過大評価してはならない。それは、ただ、アジアにおける英国の凋落を早めたにすぎない。開戦前に両国はこの戦争にはアジアの支配が賭けられていたと信じていた。その意味では両国とも太平洋戦争に敗れたのであった。」(227)
→シンガポール陥落だけでなく、ビルマ陥落の後、インドに日本軍が圧迫を加え続けたこと、就中インド国民軍が参加したインパール作戦(コラム#1250、1251、及び#1252のQ&A参照)の決行がインドの早期独立をもたらしたと理解すべきでしょう。
 なお、戦時中のベンガル地方の大飢饉は、あくまでも英当局の責任です。
 「アジアにおける英国の凋落を早めたにすぎない」は、英本国の立場だけからすればともかく、大英帝国の植民地側の立場からすれば妄言以外の何物でもありません。
 フェリスは、「大英帝国の過早な凋落をもたらし、英国の植民地統治が植民地独立のための教育・医療等のインフラ整備を怠ったことともあいまって、インドの印パへの分裂と累次の両者間の戦争を引きおこすこととなる等、戦後、旧大英帝国領において無数の悲惨な悲劇を招来した」と歴史を正視すべきでした。
 また、日本はアジアの支配のためにこの地で英国と戦ったわけではありません。
 あくまでも、赤露抑止態勢を維持するために支那の共産化を防ごうとし、それを英米が妨げたために、日本の経済や軍を維持するための資源、とりわけ蘭領インドネシアの石油を確保するために戦ったのです。
 しかも、日本は、敗戦後、結果的に米国に赤露抑止態勢をアジア(のみならず全球)においてとらせることに成功したことからして、太平洋戦争の主たる目的に照らせば、太平洋戦争に敗れたとは必ずしも言えません。
 それどころか、太平洋戦争における副次的目的であったところの、欧米のアジア植民地の解放については、アジア植民地のみならず、若干のタイムラグを経てアフリカ植民地の解放まで実現したのですから、100%以上の勝利をあげたとすら言えるのです。
 それにしても、フェリスは、この本の執筆者中、際だって出来の悪い人物であるわい、と申し上げておきましょう。(太田)
(続く)