太田述正コラム#4606(2011.3.9)
<ニッシュ抄(その2)>(2011.5.30公開)
 「海軍は予算獲得合戦で常に陸軍の後塵を拝し、海軍拡充のため苦闘に苦闘を重ねてきた。・・・財源が許す場合には八・八艦隊<(注2)>へと向かうという方針が立てられて、ようやくその流れが変わった<ところ、それは、>・・・海軍は、政党を口説いて、さらには陸軍とも折れ合ってという苦しい長期戦を耐え抜いて、やっとここに辿り着いたのである。
 (注2)「1907年・・・、帝国国防方針における「国防所要兵力」の初年度決定にお<ける>、艦齢8年未満の戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻を根幹とする艦隊整備計画。・・・アメリカ海軍を仮想敵国選定とした日本海軍の国防指針と第一次世界大戦の戦争景気による経済成長を背景<とする>計画・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%85%AB%E8%89%A6%E9%9A%8A
 ところが、1919年以後、日本経済が急激に悪化し、海軍には頭の痛い問題となった。アメリカ自身が自国の建艦計画を進めていたので、日本海軍の建艦計画が依存していた鋼鉄が必要なだけ<米国から>入手できなくなった。さらに、建艦計画は、1920年の八幡製鉄と川崎造船のストライキ<(注3)>によって大きな影響を被った。このころ各国海軍は燃料を石油に変えつつあったが、これがまた、石油資源のない日本にとっては悩みの種となった。・・・大鑑主義に疑問<を抱く海軍軍人も出てきていたし、>・・・シベリア出兵費用が膨大なものに跳ね上がっていたこと<から、>・・・代議士の尾崎行雄などは、海軍軍備の制限を唱えて、新聞などから全面的な支持を受け<るに至っ>ていた。」(52~53)
 (注3)1919年、川崎造船所で(ストは禁止されていたところ)サボタージュ闘争が起きた結果、8時間労働が勝ち取られ、それを超える労働には割増賃金が支払われることになった。また、翌1920年、八幡製鉄所でストが起き、12時間2交代制に代わり、8時間3交代制が勝ち取られた。
http://www.geocities.jp/hatm3jp/092.html
→普通選挙の実施前に、既に自由民主主義が確立しつつあったことが分かります。
 代議士達が政治を動かし、また、「大戦期の労働市場の「売り手市場化」と攻勢的労働争議の展開」によって、「事実上の組合(団結権) 承認」がなされるに至り、次いで「戦後の環境の変化」すなわち「重工業経営の不振による解雇など雇用量 の調整の必要、企業の倒産などにより、労働市場は労働側に不利化する」一方、「ILOの結成と国際的な環境変化により・・・権利意識の高揚と運動の困難」が招来された中で、その頂点として神戸にあった二つの造船所において「三菱・川崎争議」が行われたところ、「県当局や内務省は軍隊まで動員して弾圧し」、形の上では労働側の敗北に終わったものの、「大企業を中心に、「工場委員会制度」と いう労使関係の新しい枠組み<が>形成」
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/lecture-notes/Eco_04/JEH-06.pdf
されたのです。(太田)
 「<このような背景の下、1921年のワシントン会議の主席全権委員の加藤友三郎海軍大将(海相)(注4)は、>12月27日、東京の井手謙治海軍次官に伝言を送って・・・次のようにいっている。
 (注4)1861~1923年。海相:1915~23年、首相:1922~23年8月(死去)(23年5月まで海相兼務)。
 「平たく言えは金が無けれは戦争が出来ぬと云ふことなり…仮りに軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも日露戦役の時の如き少額の金では戦争は出来す然らば其の金何処より之を得へしやと云うに米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当らず而して其の米国が敵であるとすれば此の途は塞かるるか故に日本は自力にて軍資を造り出さざるべからず…結論として日米戦争は不可能といふことになる…日本は米国との戦争を避けるを必要とす」」(注5)(57)
 (注5)結局、ワシントン会軍軍縮条約では、米及び英・日・仏及び伊の戦艦及び航空母艦の保有総排水量比率を5:3:1.75(最終的には5:5:3:1.67:1.67)と定められた。また、米英日三国間で、東経110度より東に海軍基地、または要塞の建設の禁止とすることとなった。ただし、日本本土及び沿岸諸島、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、ハワイ、アメリカ本土及び沿岸諸島は除かれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E6%9D%A1%E7%B4%84
 「加藤は<1922年>3月10日に帰朝したが、・・・高橋<是清>首相・・・が6月6日に辞職すると、<加藤が後任の首相に選ばれた。>・・・
 加藤首相は、・・・条約履行に付随する改革に乗り出さねばならなかった。・・・シベリア出兵<の>・・・撤兵は10月にはほぼ完了した。7月の初め、海軍大臣を兼任していた加藤は、11隻の戦艦の廃棄と1万2000人の海軍軍人の整理を含む、海軍削減計画を公表した。これと同様の計画が、陸軍大臣山梨半造の名のもとで作られ、6万人以上の陸軍軍人が整理されることになった<(注6)>。12月には、・・・青島からの撤兵が行われた。・・・
 (注6)「1922年8月と翌年4月の二度にわたって・・・陸軍史上初の軍縮・・・<いわゆる山梨軍縮が>行われた・・・。軍事費<を>削減<しつつ、>平時兵力の削減と新兵器を取得し近代化を図ろうと<し、>・・・約60,000人の将兵、13,000頭の軍馬(約5個師団相当)の整理とその代償として新規予算約9000万円を<確保した>。・・・<しかし、>近代化と経費節約は不徹底であった<上、>これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し新式装備の導入は困難となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E8%BB%8D%E7%B8%AE?action=purge
→このような背景の下、帝国陸海軍は、高度な見識の下、世論に積極的に答える形で軍縮を断行したわけです。(太田)
 帝国国防方針<も>改定された。・・・<新>国防方針は三つの国を仮想敵国とし、敵性度の高い順にアメリカ、ソ連、中国と並べている。・・・アメリカ<は>初めてロシア(ソ連)より上位に置かれた。・・・
 加藤はアメリカとの紛争を防止すべく努力してきたのに、参謀総長と軍令部長によって考案され、加藤首相の在任中に採用された新国防方針は、<こうなった。>
 <ただし、>陸軍は、・・・依然としてアジアにおけるソ連の活動に関心を集中させがちであった。」(65~67)
 「ワシントン会議を終えた日本は、・・・ロシア革命の影響を警戒していた。中国が反日的なのは共産主義の影響に帰すことができると、あるいはまた、ロシア革命は日本国民にも影響を与えていると信じていた。」(69)
→海軍は陸軍に比べてより大きな軍縮を断行したわけであり、海相を兼務していた加藤首相は、海軍部内を収めるために、その意に反して、海軍の再軍拡の根拠たりうるところの米国の仮想敵国筆頭化を認めざるをえなかったのでしょう。
 問題は、仮想敵国の仮想がとれた米国にならないよう、少なくとも爾後、対米工作を日本政府をあげて実施しなければならなかったというのに、それが行われなかったことです。その最大の責任は外務省にある、というのが私の見解であることはご承知のとおりです。(太田)
 「ワシントン条約の中国に関する合意事項・・・の狙いは、中国における通商上の機会均等の実現であったが、その拠って立つ所は、中国が秩序ある組織化された国家になるという仮定であった。中国においてこのような仮定を具体的なものとして結実させることは、難しくなりつつあったので、機会均等もまた見果てぬ夢に終わりそうであった。鹿島<守之助>は、これを「世界が極東問題の解決において犯した大きな過ちの顕著な例である」と指摘している。」(63)
→引用はしませんでしたが、この見解に対してもニッシュは冷笑的です。
 しかし、鹿島の指摘はそのとおりであり、ワシントン体制は、日米英協力体制、とりわけ日英協力体制が堅持されない限り、始めから瓦解する運命にあったのです。(太田)
(続く)