太田述正コラム#4608(2011.3.10)
<ニッシュ抄(その3)>(2011.5.31公開)
 「1923年末・・・には、米議会は特に日本を目標とした移民立法を考慮していた。駐米大使であった埴原正直<(注7)>は、再三再四抗議を行い、米政府からは一定の理解を得た。それにもかかわらず、1924年5月には、日本人移民の排除を主目的とする項目を含んだ法案が上下両院を通過し、同法は7月1日に発効することになっ・・・た。・・・日本政府は人種差別を理由に正式に抗議した。貴族院はアメリカの行為は極めて遺憾であるという決議案を採択した。埴原大使は失望のあまり職を辞した。・・・
 さらに・・・1923年12月23日・・・摂政<たる>皇太子に対する暗殺未遂事件、虎ノ門事件<が起こった。>・・・<これが>共産主義者の仕業であった<ことから、>政府は・・・近隣諸国の共産主義活動を厳重に警戒するようになった。」(74)
 (注7)はにはらまさなお。1876~1934年。1897年に東京専門学校(現早稲田大学)卒業、東洋経済新報社に入社して日本最初の外交専門誌『外交時報』を刊行し、翌1898年に外務省に入省、外務事務次官時代には当時の加藤友三郎海軍大臣、幣原喜重郎駐アメリカ大使とともにワシントン会議の全権委員に選任された。その後駐米大使に就任するも排日移民法案阻止のため国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズにあてた書簡中に書かれた「重大なる結果」の一句がアメリカ国内で問題化し、同法成立の一因とされ責任をとり帰国することとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E5%8E%9F%E6%AD%A3%E7%9B%B4
→当時は清浦奎吾内閣でしたが、むしろ大使召還を行い、米国に対して明確に抗議の意思を表明すべきでした。外務次官あがりの松井慶四郎(服飾デザイナー田中千代の父親)外相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%85%B6%E5%9B%9B%E9%83%8E
の見識を疑います。
 なお、埴原のような人物こそ、その後、外相等として活躍する場を与えられてしかるべきでした。(太田)
 
「1924年5月の総選挙の結果、・・・護憲三派連立内閣<が成立し、>・・・加藤高明<が>首相<に就任した。>
 加藤高明が外務大臣<として、>・・・義弟であった・・・幣原喜重郎・・・<を選んだ。>」(74~75)
→加藤が幣原と外交・安保観が一致していたとは到底思えないことから、幣原の外相選任は身内の情実人事である、と断ぜざるをえません。
 加藤の人生における最大の汚点ではないでしょうか。(太田)
 「陸軍はロシアにおけるボルシェヴィズムの権力奪取に多大な関心をいだき、新しい共産主義体制が<極東>へと広がってくるのではないかと強い懸念をもっていた。陸軍はその新対ソ政策宣言において宿敵ロシア[ソ連]を厳重に警戒し対決していく姿勢を示した。第一次世界大戦中、陸軍は軍閥が跋扈する中国の混乱を懸念していたが、ボルシェヴィズムの影響下にあった中国国民党軍が中国統一を目ざして、1920年代に北伐を開始すると、この軍事作戦は日本陸軍の指導者たちの不安をさらにもっと強くかきたてた。」(76)
 「満州に関して、日本は拡大しつつあったソ連による反帝国主義宣伝を意識しすぎるほど意識しており、満州里からウラジオストックまで満州中央を横断する東支鉄道の鉄道事務局によって中国住民が赤化されていると警戒心を強めていた。日本の全貿易額の25%を占める中国本土に関しては、日本は二重苦に悩まされていた。すなわち、中国の政策が共産主義の影響を受けつつあり、同時にまた、非常に反目的色彩の濃厚な新中国ナショナリズムが激化しつつあった。」(78~79)
→ニッシュは、帝国陸軍を主語に上記を記していますが、これは当時の日本の世論の認識でもあったことを忘れないようにしましょう。(太田)
 「<そんなところへ>満州の張作霖と直隷省の呉佩孚間の軍閥戦争、第二次奉直戦争<(コラム#4502)>が起こったのである。時の加藤内閣の閣僚の中からも、張作霖援助を強化するよう求める声が上がり始めた。・・・しかし幣原は、9月22日、日本の不干渉方針に変わりのないことをあらためて宣言した。一ヶ月後、張が敗北の危機に瀕したので、閣議は対応策を根本から見直す必要に迫られた。日本は中国本土までの内戦が満州に波及するのを阻止し、なんとしても日本の在満権益を保護しなければならなかった。多くの閣僚が干渉策を主張し閣議が分裂したので、幣原は加藤に辞表を提出したが、加藤はその受け取りを拒んだ上、玉虫色の解決策を模索した。<結局、>・・・「宇垣陸相も明らかに知っていたと思われる、政府声明に反した」<ところの、>・・・陸軍の情報関係者・・・<による>秘密工作の結果、呉佩孚の連合軍は、内部から堀崩されたのである[日本の出先軍機関による秘密工作によって、馮玉祥が寝返ったとされている]。呉の敗北の結果、張はほとんど即座に首都北京の支配権を掌握した。」(79)
→幣原が世論と陸軍に真っ向から逆らう外交に固執したため、内閣の中で浮き上がった存在となり、いたたまれず自ら辞表を提出したというのに、義兄で幣原の任命責任がある加藤は、あろうことか、そんな幣原を慰留したのです。
 その結果、陸軍が、しかも下克上的に世論を踏まえた行動をとった、というわけです。
 これは、その後何度も繰り返されることになるパターンの最も初期のものではないでしょうか。(太田)
 「上海で勃発した・・・五・三0事件<(コラム#4534)>・・・<の結果、>香港と広東でストライキとボイコットが行われ、これが15月間も続き、南中国におけるイギリスの貿易は大打撃を受けた。揚子江沿岸の港におけるイギリス製品とイギリス企業の代理店に対する中国人民の排斥運動も盛り上がりを見せた。外国ではこの運動を共産主義の扇動家のせいにして、ワシントン条約国間の協調精神のもとに、日本に助けを求める傾向があった。・・・しかし幣原は、日本の主要な輸出市場が縮小することは避けたいと考えていたので、かかわりをもつことによってイギリスの不人気を分かち合うような気などさらさらなかった。イギリスがボイコットから受けている損失から、当然の結果として、日本は利益を享受していたのである。
 幣原は、国益の命ずるところに従って、他国と手を組んだ。1924年11月から1925年2月まで開かれた国際阿片会議では、日本は、排日移民法によって生じていた反米感情にもかかわらず、イギリスと対抗するためにアメリカの側についた。」(80~81)
→幣原が固執したのは、米国事大主義(=米国以外の列強との非協調主義)と支那ナショナリズムへの迎合と利己的な経済的利益追求の3点セットからなるところの、醜悪極まる外交であったわけです。(太田)
 「1925年11月、[張作霖の部下、郭松齢<(コラム#4502)>が起こした]反乱のため、張は敗北寸前にまで追い込まれた。このとき関東軍の兵力は不十分だったので、在満の軍人、外交官、民間人は口をそろえて補充兵を求めた。これに応じて日本は、2500人の兵隊を奉天に派遣した。関東軍司令官白川義則中将は、反乱軍の進軍を妨害しないようにという東京からの訓令に背いて、部隊に出動を命じた。これによって年末までには張の命運は回復された。彼は4月には北京に入城し、自ら大元帥の地位に就いた。日本はこの満州での対応を在満邦人の生命と財産を擁護するための行動であったと主張した。この旨の外相演説は、大きな拍手喝采をもって迎えられた。」(81)
→ここでも、先ほど記したパターンが繰り返されたことがうかがえます。(太田)
 「幣原・・・は、・・・中国との親善、少なくとも日本と協力する用意のある勢力との親善を促進することに努めながら、・・・中国における他の貿易国との協力にはお構いなく、市場の拡大を追求した。この・・・政策は経済外交という抑制的な外交の一部を構成して<いた。>・・・これは状況々々に応じた閣内での妥協策に基づく機会主義的政策であった。」(82)
→ニッシュ自身が、私の記した幣原外交の3点セット・・米国事大主義には直接触れていませんが・・を指摘しているわけです。(太田)
(続く)