太田述正コラム#4673(2011.4.8)
<トマス・バティとヒュー・バイアス(その1)>(2011.6.29公開)
1 始めに
 Fat Tailさんが教えてくれた、トマス・バティ(Thomas Baty)とヒュー・バイアス(Hugh Byas)という、クレイギーやピゴットでさえ真っ青になるような親日のしかも有力な英国人が戦間期に日本にいた・・ただし、後述するように、バイアスの方は、日支戦争あたりから反日へと転向します・・、という話、ずっと気になっていたのですが、彼から示された資料を読む時間がなかなかとれないでいたところ、現在進行形のシリーズが満州事変にさしかかったので、自らを鞭打ち、遅ればせながら、とりあげることにしました。
Peter Oblas ‘IN DEFENSE OF JAPAN IN CHINA:ONE MAN’S QUEST FOR THE LOGIC OF SOVEREIGNTY’(2001)
A:http://www.nzasia.org.nz/downloads/NZJAS-Dec01/Oblas.pdf
Peter Oblas ‘Accessing British Empire-U.S.Diplomacy from Japan:Friendship, Discourse, Network, and the Manchurian Crisis’(2004)
B:http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/210/1/200000260873_000143000_27.pdf
Peter Oblas ‘BRITAIN’S FIRST TRAITOR OF THE PACIFIC WAR:EMPLOYMENT AND OBSESSION;PETER OBLAS1’(2005)
C:http://www.nzasia.org.nz/downloads/NZJAS-Dec05/7_2_6.pdf
D:http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Baty
Hugh Byas ‘Government Assassination'(1942)の紹介
E:http://www.amazon.co.jp/Government-Assassination-Hugh-Byas/dp/1417990821#reader_1417990821
Peter Oblas ‘Hugh Byas, a British Editor Who Became a Leading Expert on Japan Between the First and Second World Wars: A Biographical History in Newspaper Journalist'(2009)の紹介
F:http://www.mellenpress.com/mellenpress.cfm?bookid=7845&pc=9
同上
G:http://www.amazon.co.jp/British-Editor-Became-Leading-Between/dp/0773446605
Peter O’Connor ‘”He Said his Anglo-Scottish Say”: Hugh Byas in Interwar Japan’(2008)
H:http://www.fccj.or.jp/node/3115
2 トマス・バティ
 (1)その歩み
 バティ(1869~1954年)は、スコットランドに近いイギリス北部で生まれ、オックスフォード大学で法学士、法学修士号を取得し、ケンブリッジ大学で法学博士となります。
 気鋭の若手学者であった彼は、オックスフォード大学の国際法教授の座を狙うも、8年先輩のヘンリー・リチャーズ(Sir Henry Erle Richards)に敗れてしまいます。
 そんなところへ、日本の外務省から、同省の法律顧問へという話が持ち込まれます。
 34年間法律顧問を務めた米国人(Henry Willard Denison)の死去に伴い、その後任として、彼に白羽の矢が立ったのです。
 こうして、バティは、1916年、日本に向けて旅立つのです。
 もとより、高い地位と高給に彼が惹かれたことは事実ですが、彼が日本に好印象を抱いていたこと(A)もあずかっていたと思われます。
 バティが、(日本で得られた高給の一部を投じて恐らくは丸抱えで、)1916年から40年にかけて、年3回発行されるフェミニズム雑誌(発行部数200~250部)をイギリスで発行し続けたことが示すように、彼は、筋金入りのフェミニストなのですが、母親と妹とを同道して来日し、間もなく母親を亡くした後、セックス嫌いで独身を通し、日本で妹に身の回りの世話をしてもらいながら残りの生涯を送る(妹は1944年に日本で死亡)、という中性的傾向を持ったフェミニストでした。
 ピーター・オブラス(Peter Oblas。東京外語大教授)は、「バティの日本への情熱の一つの理由は、男女のアイデンティティーのとらえ方と実際とが日本においては自由であった一方で、イギリスでは、女系家族の理念・・・ヴィクトリア時代の<イギリスの>若者達においては男性と女性は極めて自由に混淆し、女性は男性に従属していなかった・・・から離れつつあったからである、と見ることもできるかもしれない」(A)と指摘しています。
 (法学教育にあたっては、法と慣習の関係を学ぶ際に、主要各国の慣習にある程度通じるようになりますが、その過程で、男女関係を含む日本の慣習についても、バティは知るところとなったと思われます。)
 当時の現実の日本、とりわけバティが仕事や社交でつきあった弥生的な上流階層の日本人達の男女関係が果たして彼の期待通りであったかどうかは疑問なしとしませんが、彼は料理人や召使いを何名も抱える生活を日本で送ったところ、縄文的な庶民達の男女関係は、恐らく彼の期待通りであったと思われ、だからこそ、彼は日本に骨を埋める気になったのでしょう。
 1922年に、上出のリチャードの死去に伴い、その後任にバティは推されるのですが、彼が、かつて切望していたところの、この名誉ある教授ポストへの就任を断ったことからも、いかに彼が日本が気に入っていたか、分かろうというものです。
 さて、「第一次世界大戦後、国際連盟ができたことに伴い、・・・国際法は、慣習や理性に基づく諸権利に係る諸原則に立脚する主権の論理に比し、国際的なフォーラムにおける諸国家の実態(practice)に、より関心を寄せるようになった」のです(A)が、バディはそのような動きに与しませんでした。
 彼は、1930年に ‘The Canons of International Law(国際法の規準)’ という著書を上梓しますが、その中で、あらゆる国際法が抱かなければならない規準として、単純性、確実性、客観性、弾力性の4つを挙げており、専門家たる書評子は、その余りの伝統的国際法観に懸念を表明しています。
 しかし、バティーは、この彼が信じるところの伝統的な国際法観でもって、日本と支那に係る国際法的諸問題について、日本を擁護する議論を展開して行くことになるのです。
(続く)