太田述正コラム#4693(2011.4.18)
<再び日本の戦間期について(その7)>(2011.7.9公開)
 「イーデンは、国際連盟担当相時代にイギリス<国連>主席代表アレクサンダー・カドガン(Sir Alexander Cadogan)<(注21)>との友情を培うことになり、イートン校の10年先輩である後者が1933年に駐北京公使に任命されたのは、おそらくイーデンの推挽によるものであったと考えられる。そして翌年に公使の資格から大使に昇格されるにいたり、カドガンは、初代の駐北京英大使になったのである。1935年10月の覚書の中でカドガンは、日本の目的について触れ「極東を支配し、おそらく究極的にはアジアを支配する」ことにあるとしるしている。
 1935年12月、アンソニー・イーデン(Anthony Eden)が・・・この直後に・・・イギリス外相に就任した。・・・新外相は、1936年2月4日、・・・カドガン<を>外務次官代理に任命し<た。>・・・カドガンが、1936年以降、イーデンが外相を辞任するまでの1938年にいたる期間、イギリスの対日政策決定における中心人物であったことは疑いない。そして・・・次官に昇格した後においても、対日政策決定に関しては中心的役割を果し続けた。・・・2年間の中国滞在中に日本軍の行動を目のあたりにしたカドガンは、はっきりとした親中国的立場をとるようになっていた。新しいポストに就いた彼は、中国を援助したいという願望について語っている。・・・外交官および官僚としてのカドガンの行動は、完全に正しいものではあった・・・。
 イーデンがイギリスの外交のトップの座についたのは、アン・トロッター(Ann Trotter)女史のいう二元外交(dual diplomacy)の段階が終了した後であった。トロッター女史は・・・「極東における外務省と大蔵省の対立」を論じている・・・。これが表面化したのは、国家財政の最高責任者ウォレン・フィシャー(Sir Warren Fisher)大蔵次官が外務省に失望し、東アジアに関しては外務官僚の助言をあまり評価しなくなった1933年頃である。・・・フィシャーは公務員としての最高責任者の地位を利用して、日本および中国に対する政策決定に介入する権利を主張した。1934年、フィシャーは対日和解を進めるための提案を行い、大蔵大臣ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)やその同僚たちの支持を得た。外務省は不本意であ<ったが、>・・・こうしたフィシャーの対日和解への努力には協力せざるを得なかった。チェンバレンは、些か尚早の感のある覚書をしたため、サイモン外相に説いている。「貴下はサイモン・広田協定の生みの親として(特に)後世に知られることになるであろう」<と>。・・・
 フィシャー<は、>・・・彼自身の見解を改めて次のように示している。
 「もし、『我々が日本とヨーロッパ最強の海軍勢力とを同時に敵にまわして戦うことはできない』のであれば–これは我々の資源を最大限楽観的に見積っても自明となるのであるが–我々はこれ以上日本を疎外することはできないだけでなく、日本と誠意ある永続的妥協は、日本が必要と感じている海軍艦船についてその種類および量を制約することだけをイギリスが無為に主張し続けていては、達成し得ない」。
 W・フィシャーのこのアプローチは、内閣によって若干の保留条件を加えられたうえで、採択され、海軍力をめぐる対日妥協案が作成された。しかしこの案は、日本にとって受け入れ難いものであることが10月までに明らかとなり、日本はワシントン海軍軍縮条約体制から脱退する意図を伝えてきた。対日妥協派の中には、たとえ海軍力をめぐる妥協が成立しなくとも、財政面、商業面で何らかの妥協が可能であろうという希望がまだ残されていた。
 日本との妥協をはかろうとするアプローチに対しては、アメリカの賛同は得られまい、ということは認識されていた。英米関係改善を計ろうとする主要勢力は外務省であ<った。>・・・これに対して大蔵省は–少なくともN・チェンバレンとW・フィシャーは–外務省とは対照的に、アメリカの反対を度外視する意向をもっていた。W・フィシャーは、「アメリカの同意という形のかかわり合いを一掃する」ことを欲した。そして「もしアメリカが望むのであれば、勝手にアメリカ艦隊を世界中巡航させ、『コロンビアバンザイ!7つの海洋バンザイ!』と叫ばせておき、彼等の虚栄心を満足させるがよい」、という見解であった。フィシャーのこのような態度は、第一次大戦時のアメリカの連合国側への債権についてのアメリカの固執に対する、彼の反撥によるところもあったであろう。しかし、外務省は、実際においては、大蔵省の反米主義を封じ、イギリスの対東アジア政策形成過程にアメリカの考えを取り入れることができたのであった。
 一方、中国問題をめぐる外務省と大蔵省の違いは、別種のものであった。外務省も大蔵省も、外国援助によって中国を再建すべきであることを強く勧告したリットン委員会報告書を支持した。リース・ロス経済使節団は、実質的に大蔵省の計画構想の所産であったが、この使節団の意図が、国民党による中国再建を助けることにあったことは疑いない。しかし広範な日英間の問題解決の切り札として満州国承認が必要なのであれば、満州国承認について日本との交渉を考える用意が大蔵官僚たちにあったのは明らかである。・・・<しかし、>一般的に英外務省、特にカドガン駐中国大使は、リース・ロス経済使節団の背景にあった政治判断の前提に反対し、そのようなことについては何も知らないと断言していた。
 <こうして、>イーデンがイギリス外交のトップの座につく頃までには、対日和解が論じられることは少なくなってしまっていた。・・・
 <すなわち、>イギリス側から日本に交渉を働きかける余地はほとんどなくなっていた。しかし1936年10月、日本側から交渉申入れにもひとしい働きかけにイギリスは接したのである。吉田(茂)駐英大使の動きである。吉田は駐イタリア大使時代にジュネーブを頻繁に訪れ、そこでイーデンやカドガンたちとよく知り合う間柄になっていた。カドガンは、1936年5月、ロンドンに赴任する直前の吉田に東京でも会っていた。吉田は、東京とロンドンで下準備をしたうえで、日英関係改善に関する個人的覚書を大蔵大臣としてのN・チェンバレンに提出した。・・・吉田覚書がたとえ個人的なものであったにせよ、このような日本のイニシアティヴを無視するのはイギリスの利益に反することであるのは確かであった。・・・
 <結局、本人はかねてより>対日和解政策に反対の立場を明らかにしていた<にもかかわらず、>・・・イーデンは、<8月まで>吉田大使を通じて日本と不定期的に交渉を続行した。しかしそれは失敗に終り、吉田大使を大きく失望させた。
 イーデンが忍耐強く日本との交渉を続けた理由のひとつは、地球の裏側に存在する英連邦諸国が、日本が示しはじめている新しい友好的態度を利用すべきである、と熱心に考えていたことである。・・・英本国と海外自治領との間には、長期にわたって利害の相違が存在していたことはもちろんである。たとえば、英本国の安全が日本によって脅されることはなかったのに対し、オーストラリアや他の英連邦諸国は日本の脅威をますます強く感ずるようになっていた。オーストラリアは、ニュージーランドや東南アジア英植民地領と同様、英海軍の保護に依存していたが、シンガポール基地および主力艦をシンガポールに結集する<日本に対して挑発的な>作戦を基礎とした英海軍の保護に対しては、疑問を深めていた。それには経済的な理由もあった。というのは、オーストラリアは農産物輸出に依存するすべての国々と同じく、大不況時代に大きな経済打撃を蒙り、その救済を対日輸出に頼っていたからである。これは、他の英連邦諸国がとってきた伝統的政策とは対立するものであった。・・・<オーストラリアの>J・A・リヨンズ(J.A, Lyons)内閣の司法大臣、外務大臣、副首相などの地位にあった・・・ジョン・レイサム(Sir John Laitham)<(注22)>・・・は、秘密報告書の中で中国の混乱状態について述べ、満州の状況については日本に少なくとも何らかの安全を与えるべきであると主張した。満州事変解決については、国際連盟と日本の両者の顔を立てるような方式を彼は求めた。・・・
 このようなオーストラリアの動きの中心となった人物は、<駐英>オーストラリア高等弁務官でイーデンの親友でもあったスタンレー・ブルース(Stanley Bruce 後に Lord Bruce)<(注23)>であった。ブルースは、1930年代半ばの日本の政策目的に対して同情的な見方をしており、・・・日本のかかえている問題を、人口過剰および海外輸出市場の必要性という観点から分析し、次のように指摘している。「日本が中国市場を大きく拡大でき同時に英植民地領における機会も増大できるという可能性を認めるのであれば、日本に問題解決を考えさせる誘因は存在する。問題解決の一部として、満州国の現状を恒久的もしくは一定期間認めることに中国政府が同意することが恐らく必要であろう」。・・・彼の見解は、日本に対する同情から出たものではなく、オーストラリアの安全に対する懸念から発したものであった。
 1937年3月、オーストラリアは、日本と英帝国を含む太平洋協約の締結をイーデンに提唱した。そして当然のことながらこの動きにブルースが関与していた。オーストラリア首相リヨンズは、英帝国会議の機会を利用して、このオーストラリア提案に対する他の英連邦諸国首相たちの同意をとりつけた。吉田大使からも、日本政府が太平洋協約構想に恐らく賛成するであろうという保障–それは吉田大使の誤った判断であったが–が得られた。しかしイギリス国内の一般的合意は、もし選択をするのであれば、太平洋地域全体の了解確立をねらうよりも日英了解をめざす計画を優先すべきである、ということであった。日中戦争が発生するや、中国を基礎とした日英接近計画も、太平洋を基礎とした日英和解計画も、共に事実上終焉を見ることになるのである。」(65~73)
 
 (注21)1884~1968年。外務次官:1938~46年。国連大使:1946~50年。その後、BBC会長を務める。
http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Cadogan
 (注22)Latham, Sir John Greig 。1877~1964年。
http://adbonline.anu.edu.au/biogs/A100002b.htm
 (注23)Stanley Melbourne Bruce, 1st Viscount Bruce of Melbourne。1883~1967年。豪首相:1923~29年。駐英豪州高等弁務官:1933~45年(その間、チャーチルの戦時内閣の一員となる)。1947年に豪州最初の英永代貴族に叙される。
http://en.wikipedia.org/wiki/Stanley_Bruce
→以上、長々と引用しましたが、細谷のペーパーとこのニッシュのペーパーを併せ読むと、当時の英国内での対日政策をめぐる動きが良く分かりますね。
 親日・反米の英大蔵省(チェンバレン/フィシャー)に対するに反日・親米の英外務省(イーデン/カドガン)の対立と言っても、日本を脅威とみなした上で、日本と宥和するか、(ドイツに加えて)日本とも対峙するか、という違いに過ぎなかったということです。
 (なぜ、反日派が親米派になるかと言えば、日独両国と対峙するのであれば、英国独力では不可能であり、米国を味方にしなければならないからです。)
 また、この時期、豪州とカナダ(コラム#4679)が親日派に属したのも、日本を脅威とみなした上で、経済的利害の観点からも日本と宥和する方が望ましいと考えたからに他なりません。(その際、日本政府/バティの支那観が、カナダの場合、援用されることになります(コラム#4679)。)
 カナダも豪州も、かつて日英同盟の廃棄を主張する反日派に属した(コラム#省略)わけであり、また両国(自治領)とも先の大戦時には無条件で英本国とともに日本と戦い、戦後、豪州は長きにわたって、反日であり続けたわけですが、それは、日本を両国は一貫して脅威とみなしていたのですから、すこしも不思議なことではないのです。
 結局のところ、この時期の大英帝国の指導者達すべてに共通していたのは、日本の対支(対東アジア)政策の基本が対赤露安全保障であることに気が付かないか気が付かないふりをしていた点、及び、米国こそ英国にとって脅威であることにやはり気が付かないか気が付かないふりをしていた点の2点であり、だからこそ、彼等は、おしなべて日本を英国にとっての脅威であるとみなすという妄想にとらわれてしまっていたのだ、というのが私の考えです。 
 (当時の「日本のかかえている<最大の>問題を、人口過剰および海外輸出市場の必要性」と見たのは、ブルースだけではなかったはずですが、日本のかかえている最大の問題は、対赤露安全保障であった、ということです。)
 それにしても、吉田茂のKY的な策動には、改めて呆れざるをえません。(太田)
(続く)