太田述正コラム#4724(2011.5.3)
<英国人の日本観の変遷(その4)>(2011.7.24公開)
3 ゴードン・ダニエルズ/フィリップ・シャーリエ「国民をして国民に平和を語らしめん–英国放送協会(BBC)と日本(1928~1937年)
 「英国の放送は、最初の数年間、一人の人物が、国際問題、したがって世界政治における日本の役割に関する報道に大きな腕を振るった。その人物とは、ヴァーノン・バートレット<(注3)>であった。・・・パリ講和会議の後、バートレットは、『タイムズ』紙に勤めていたが、1922年、国際連盟のロンドン事務局長に就任した。・・・その後、短期間だが、英国放送協会の社員になった。・・・
 バートレットは、・・・「当の(国際連盟という)機構は完全な独立国を対象として創設されたので、政府の統制が…遠く離れた省にはまるで及んでいない中国のような国を問題にするには、あまりにも硬直的で、対応の仕様がない」ことがありうると述べた。・・・
 <そして、>1932年1月27日・・・に・・・バートレットは・・・次のように論評したのである。
 アメリカ国務省が何か一つ、明確な外交政策を持っているといえるとすれば、それは日本を強大にしすぎないようにするということである。とくに西洋諸国には、日本人に対してはっきりとした偏見がある。それはまったく不当なものだと思われるが、そもそも偏見とは、理性に基づくものであることはまずないのだ。」(230~233)
 (注3)Charles Vernon Oldfield Bartlett。1894~83年。イギリスのジャーナリスト、政治家、著述家であり、1938~50年の間下院議員を務めたが既成党派に所属しなかった。1954年からシンガポールに移り、ストレート・タイムスに政治評論を書き、また、マンチェスター・ガーディアンの東南アジア通信員を勤める。(彼は、タイムズ時代にも海外特派員を勤ていまる。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Vernon_Bartlett
→前半は、トマス・バティ本人の声を聴く思いがしますし、後半は的確な米国の人種主義批判ですね。。(太田)
 「<また、英国放送協会における、>『華北日報』の元編集者、オーウェン・M・グリーン<(注4)による>・・・「極東の戦雲」という彼の解説は、大部分が日本の抱く不満への共感によって占められており、それに若干の反ロシア感情が加味されていた。「日本にとって、満州とはまさに生死に関わる問題である。アメリカやオーストラリア、その他の国ぐにが門戸を閉ざしているなかで、日本は人口のはけ口を必要としているのだし、市場や原料の供給地も必要なのである」と<した上で、>・・・「日本が欲しているのは、より多くの領土ではなく貿易なのであり、満州を併合しようとしているのではなく、そこでの産出物を誰よりも先に確保するという請求権を確立しようとしているのだ、と言って少しも差し支えないと思う」と結論した。彼はまた、「中国人は、日本人がそうするまで、満州を開発するうえでたいしたことはなにもしてこなかった」とも述べた。・・・興味深いことに、グリーンは国際連盟とその活動には一度も言及していない。彼のおもな関心は、満州事変が中国の内政にどのような影響を及ぼしうるかということだった。「全世界にとってとくに深刻なのは、急進派、すなわちナショナリスト左派の台頭である。この連中は広東軍に率いられているが…、広東軍の最高実力者はユージン・チェン<(注5)>で、5年前にはロシアの手先であるボロディンと密接な関係を持っていた」と、彼は締めくくった。グリーンにとって、その後起こりうる最悪の帰結は、中国で共産主義が増大することだったのである。」(230~233)
 (注4)Orwen Mortimer Green(247)。’The foreigner in China’(1943年)の著者。
http://bit.ly/kn2JxZ
 (注5)陳友仁(Eugene Ch’en)。1879~1944年。「イギリス領トリニダード島<で生まれ、>・・・イギリスで教育を受け、・・・弁護士資格を取得し・・・た。1912年・・・に帰国<し、>・・・1917年・・・、日本の中国侵略の態度を批判する論文を発表したため、国務総理段祺瑞の忌むところとな<り、>・・・逮捕、拘禁され<る>。・・・1931年・・・1月に<再び>帰国し、反蒋介石派・・・が組織した広州国民政府に参加し、外交部長に任ぜられた。同年末、満州事変勃発に伴う両派大同団結となり、陳は合流後の南京国民政府でも外交部長となる。しかし翌年1月、対日断交の進言が受け入れられなかったため、早くも辞任した。・・・1941年・・・、香港が日本に占領されると、陳友仁は汪兆銘政権参加を日本や汪兆銘政権から求められたが、あくまで拒否している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%8F%8B%E4%BB%81
→バートレットはタイムズ特派員時代に恐らく、そして、グリーンはもちろんのこと、東アジアに土地勘があり、かつ、どうやらまともな人物であったようですから、、そうであれば、当然、彼らは、当時の日本人と同じ日支観や(赤)露観に到達してしかるべきだ、ということでしょうね。(太田)
 「1932年の初め、中国国民政府の政治顧問を務めていたサー・フレデリック・ホワイト<(注6)>は、・・・英国放送協会で解説を行<い、>・・・日本の根本的ジレンマについて、以下のような概略を示した。
 日本は、70マンの新生児(日本の人口が毎年自然増加する分に当たる)の職を国内で見つけるか、それとも海外に新たな故郷を見出すか、困難な選択を迫られている。いずれの場合でも、国内問題の解決が対外政策に向けられていることがわかるだろう。日本は新たな移民先を開拓し、新市場を確保しなくてはならない。移民は事実上失敗しているから、海外の自由市場が日本にとって唯一の現実的な選択肢である。しかし、世界的に日々関税障壁が高くなるなかで、満州のように有望な市場を、必要とあらば武力を用いて支配する用意があると日本は考えるようになっている。日本が正しいというのではないが、日本が自身の問題をどのようにとらえているのか、理解しておいてもらいたいのである。」(233~234)
 (注6)Sir Alexander Frederick Whyte。1883~1970年。1910~18年の間下院議員を務める。国民政府の顧問を務めたのは1929~32年。1939~40年に情報省米国部長。
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Whyte
→当時の日本の東アジア政策は政治が主眼であり、経済は副次的なものないしは政治の手段であって、ホワイトのような経済中心的なものの見方は、日本に理解を示しているようで実は誤解を呼ぶものです。立場が立場ですから、ホワイトは無意識的にこのような解説を行ったのかもしれませんね。(太田)
(続く)