太田述正コラム#4742(2011.5.12)
<戦間期の日英経済関係史(続)(その1)>(2011.8.2公開)
1 始めに
 引き続き、表記について、XXXXさん提供の今度は、細谷千博 イアン・ニッシュ監修 杉山伸也 ジャネット・ハンター編『日英交流史1600~2000 4経済』(東京大学出版会。2001年)からの抜粋から適宜ピックアップする形で論じたいと思います。
2 杉山伸也/ジャネット・ハンター「日英経済関係史–1600~2000年」(中、杉山が担当した前半)
 「戦間期」より相当長期を扱っていますが、目をつぶっていただいて、進めましょう。
 「ウィリアム・アダムズは、1598年6月にオランダ船リーフデ号」でロッテルダムを出港し、1600年4月に豊後に漂着した。同年末には英国東インド会社が設立され、のちにバンタムに拠点がおかれた<(注1)>。1613年6月には、ジョン・セーリスを艦長とする東インド会社船クローブ号が、当時東アジア交易の中心的港市であった平戸に入港した。
 セーリスは駿府にいたアダムズを平戸に呼びよせてアダムズとともに東上し、・・・<幕府から>通商貿易の朱印状を与えられた。この朱印状にによって、英国東インド会社は、関税免除、日本国内の寄港の自由、江戸居住の自由と貿易の許可、および治外法権をあえられた。・・・その背景には、中国が対日交易を禁止していたために、日本が中国から生糸をはじめとする必要品の輸入ができず、そのための媒介が必要とされたという事情があった。
 1613年6月、・・・平戸に英国商館<が>設置<された。>・・・しかし、<16>23年末に商館は閉鎖された。・・・1623年のアンボイナ事件<(注2)>以降、英蘭関係<が>従来の協調関係から対立関係に変化し、それにともなって東南アジア地域において英国東インド会社<が>オランダの軍事的・通商的な支援をうけることができなくなったことが背景にあると思われる。
 バタヴィア<(注3)>の<英国>東インド会社参事会は、・・・<その後何度も>対日貿易の再開をこころみた<が、>・・・<最終的に>幕府は英国国王チャールズ2世がポルトガルと姻戚関係にある<(注4)>ことを理由に通商関係の再開を拒絶した。」(2~4)
 (注1)1602年から83年(82年?)まで、西部ジャワのバンタム湾に面したバンタムに英国東インド会社の最初の商館が設けられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company
http://en.wikipedia.org/wiki/Bantam_(city)
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Jakarta
 (注2)「アンボイナ島(Amboyna Island、アンボン島Ambon Islandとも)は、インドネシア・モルッカ諸島南方のセラム島の南西に位置する小島で、クローブなどの香料を産することで知られる。ヨーロッパで珍重されたこの香料を求めて、同島への進出を図る国が相次いだ。
 1512年にポルトガル人・・・が進出して以来、アンボイナ島の香料はポルトガルが独占した。しかし、1599年にオランダ・・・がポルトガル勢を駆逐し・・・た。これに対し、イギリスも1615年に進出して香料貿易を行い、激しく競争した。
 事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結し<た。>
 この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。
 1623年2月23日の夜、オランダ側の傭兵・七蔵が衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長・・・ら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。3月9日、当局は・・・イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけるイギリス勢力を排除した。
 ・・・<この事件は、>オランダ東インド総督・・・の仕組んだ陰謀であるとの説もある。
 この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は決裂、ついには外交問題にまで発展した。事件発生から実に31年後の1654年、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を<イギリスに>支出することで決着した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6 
 (注3)バンタムの誤りではないか。ちなみに、バタヴィアについては、「1619年オランダ東インド会社東インド総督・・・がバンテン王国から<ジャヤカルタ>の地を占領、堅固な要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とした。・・・1942年日本軍が占領して当地に軍政を敷いた際にジャカルタ<(ジャヤカルタからとった)>と都市名を変更し、第二次世界大戦後にインドネシアがオランダから独立した後も、スカルノ政権が日本統治時代の<こ>の名称を引き続き使用することを決定し、現在に至っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2
 (注4)チャールス2世のお妃のブラガンザのキャサリン(Catherine Henrietta of Braganza。1638~1705年)は、後にポルトガル王となる父親の下に生まれ、ボンベイ等を手土産にイギリスにやってきた。また、フォークの使用や紅茶を飲む習慣をイギリスに持ち込んだ。彼女がカトリック教徒であったことが、イギリス議会等との間で軋轢のもとであり続けた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Braganza
→当時の日本政府や日本人がポルトガル、オランダ及びイギリス、更には支那のせめぎあいの中にまきこまれ、結構したたかに対処していたことが分かりますね。
 なお、ポルトガルこそ完全に姿を消していたけれど、20世紀において、日本がオランダ・イギリス・支那と戦火を交えることになったことは不思議な因縁だと言えるでしょう。(太田)
 「<1858年に締結された>日米修好通商条約<や>・・・日英修好通商条約は・・・文面でとらえれば「不平等」条項を含むものであったが、・・・機能的にみれば日本にとってかならずしも不利に作用したわけではなかった。・・・
 1860年代後半期の横浜における<欧米>商社の破産率は62%に達している。・・・<条約上>欧米商人の活動<は>基本的に居留地に封じ込め<られており、>日本の国内市場を外資の進出から保護し、幕府や明治政府に対欧米貿易に対するコントロールを可能にすることによって、関税自主権の欠如をある程度相殺することを可能にしただけではなく、輸出入市場双方において取引は日本人売込商・引取商に有利になり、居留地貿易は全体として欧米諸国の経済的圧力に対する「非関税障壁」として機能したといってよい。」(5~6、11~12)
→これは面白いですね。名をとるか実をとるか、という悩ましい問題にどう取り組むかでその国の真価が決まる、といったところでしょう。(太田)
 「英国人の居留人口は1890年まで横浜、神戸、大阪を中心に800~1200人で、・・・英国を含む欧米<人の>総人口の50%弱をしめていた。・・・
 <また、>商会の地域的分布は平均して横浜が50%強、神戸・大阪が40%弱で<あった中で、>・・・1860年代半ば頃の横浜では英国商社が輸出の60%、輸入の75%を取り扱っていた・・・。」(9~10)
 「19世紀後半期には、英国および英帝国地域は日本の輸出貿易の25~30%をしめていたと考えられる。日本の輸入貿易において、英国および英帝国は輸出よりもさらに重要な位置にあり、当該期には平均して50%強をしめていた。・・・
 <他方、>当時の日本に対する経済的信用が低いこともあったが、明治政府は外債の発行や外国資本を排除する方針をと<った。>」(18、20)
 「日本への西洋技術の導入とインフラストラクチャーの建設で人的資本として大きな役割をはたしたのは、技術者を中心とする御雇い外国人であった。1870年代には50%以上の御雇外国人が英国人であ<った。>・・・
 初期の鉄道建設は、・・・大部分の技術者や助手は英国人であり、鉄道の運行も英国人によって行われた。・・・
 鉱山の開発<や>・・・灯台建設や・・・情報・通信関係のインフラの建設でも英国の影響は大き<かった。>
 近代的金融・通貨システムの導入<においてもしかりである。>」(23~24)
→近代日本のスタート時点で、日本は英国の圧倒的影響下にあったということです。(太田)
(続く)