太田述正コラム#4776(2011.5.29)
<『伊藤博文 知の政治家』を読む(その3)>(2011.8.19公開)
 「伊藤はまずドイツを目指した。前年の政変の結果、政府のドイツ化路線が定まっていたことを受けて、彼はとりもなおさずドイツ帝国の首都ベルリンを訪れ、そこでベルリン大学の公法学教授ルドルフ・フォン・グナイスト・・・<と>彼の弟子アルバート・モッセ・・・に教示を乞うた。・・・
 <次いで、>ウィーンを訪れ・・・ウィーン大学の国家学教授ローレンツ・フォン・シュタイン<に教示を乞うた。>・・・
 伊藤が求めていたのは、憲法に書かれるべき具体的条文の理解ではなく、立憲国家の全体像と憲法施行後の国家運営の指針だったのである。その問題意識にとっては、シュタインの国家学の方が親和的だった。
 ・・・ベルリンで伊藤がしばしば聞かされた議会制度に対する敵対的な発言<も彼には違和感があった>。伊藤はグナイストと初めて面談した後、日本へ向けての手紙で、グナイストの説は「頗る専制論」だと書いている。伊藤によれば、グナイストは「縦令国会を設立するも、兵権、会計権等に喙(くちばし)を容(いれ)させる様にては、忽ち禍乱の媒囮(ばいか)たるに不過(すぎず)、最初は甚微弱の者と作るを上策とす云々」と述べたらしい。・・・
 同じような見解は、ドイツ皇帝によっても<伊藤に>表明されていた。・・・
 <他方、>シュタインによれば、Verfassung(議会制度)は国民の政治参加の原理とシステムとして不可欠だが、それは利害関心によって左右される安定性を欠いた政治しか行えない。これに対して議会制度を補完して国家の公共的利益を実現するシステムとしてVerwaltung(行政)が必要とされる。そのように説くシュタインの国家理論に、伊藤は感服した。」(60~64)
→このあたりの瀧井の解釈はいささかダッチロール気味で分かりにくいのですが、私自身の解釈は次のようなものです。
 伊藤は、前述のように、(憲法のない)英国の政体たる、国王を主権者とする議院内閣制に漸進的に接近していくことを可能にするような日本の憲法の起草を行う、との維新政府首脳達の間でのコンセンサスを受け、議会を持つ立憲君主制の先進2大国たるドイツとオーストリアの憲法を参考にする方針で臨んでいたところ、上記のようなこともあって、ドイツの憲法を参考にするわけにはいかないと早期に見切りをつけ・・これについては、コラム#3915も参照のこと・・、オーストリアの憲法を参考にすることにしたのです。
 なお、当時のオーストリアは、正式名称がオーストリア・ハンガリー帝国であり、その政体は、皇帝(兼ハンガリー王)が基本的に外交と軍事についての最終的権限を持ち、
http://en.wikipedia.org/wiki/Austria-Hungary
ハンガリーと帝国の残余(オーストリア)がそれ以外のすべてについて権限を持つという複雑なものでしたが、これらを規定した(事実上の)憲法に、ハンガリーとオーストリアにおける司法の独立と人権保障が謳われていました。
http://www.britannica.com/EBchecked/topic/44386/Austria-Hungary
 明治憲法が、その骨格においてこのオーストリアの憲法に極めて似通ったものになったのは、当然でしょう。(太田)
 「明治憲法・・・発布後、伊藤<が>・・・行っ<た>・・・講演<で>最も有名なものが、1889年・・・2月15日の府県会議長たちに宛てた演説である。・・・
 伊藤によれば、「憲法を設け議会を開かんとするに当り党派の起るは人類群衆の上に於て免るべからざるの数なり」とされる。<すなわち、>伊藤は憲法施行後の政党政治化をそれ自体としては不可避のことと見なしている。その根底には、憲法政治とは利害政治であるとの彼の観察がある。・・・
 <しかし、「>遽(すみやか)に議会政府即ち政党を以て内閣を組織せんと望むがごとき最も至険の事たるを免れず、蓋し党派の利を説く者少からずと雖も既に一国の基軸定り政治をして公議の府に拠らしむるには充分の力を養成するを要す。若し此必要を欠て容易に国家の根本の揺撼(ようかん)するが如きことあらば将来の不利果して如何ぞや。<」>
 ここからうかがえるのは、・・・現時点で政党が一国の基軸を定め、公議の府の担い手となるには時期尚早であるといって戒めているが、<伊藤は>議会政府それ自体を排斥しているわけではない・・・と考えられるのである。」(85、89、91)
→ここは、伊藤が議会政府(議院内閣制)を排斥していなかったことなど自明ではないか、と言いたくなります。
 瀧井は、伊藤が議会政府(議院内閣制)を漸進的に実現することを目指していたことが読み取れる、と書くべきでした。(太田)
 「1889年2月27日付の・・・伊藤が皇族や・・・華族に対して、<行った憲法についての>演説<も取り上げたい。>・・・
 「人民を暗愚にして置いては国力を増進することに於て妨げが有るゆえに、人民の智徳並び進ましめて学問の土台を上げて国力を増進する基としなければなら<ない。>」」(93、97)
→このあたりの瀧井の解釈も回りくどいので、私の解釈を申し上げれば、伊藤は、ここで、日本国民の智徳の向上に応じて漸進的に議会政府を確立させて行くべきである、と主張しているのです。(太田)
 「伊藤は後年、憲法制定の頃を回顧して次のように語っている。
 ・・・国内の議論は・・・一方に於ては前代の遺老にして、尚(なお)天皇神権の思想を懐き苟(いやしく)も天皇の大権を制限せんとするが如きは其罪叛逆に等しと信ずる者あり。他方に於ては彼(か)のマンチェスター派<(注3)>の論議が全盛の時代に於いて教育を受け、極端なる自由思想を懐抱せる有力なる多数の少壮者あり、政府の官僚が彼の反動時代に於ける独逸学者の学説に耳を傾くるに反し、民間の政治家は未だ実際政治の責任を解せずして、徒(いたずら)にモンテスキウ、ルーソー等仏蘭西学者の痛快の学説、奇警の言論に心酔して揚々たるものあり。
 ・・・伊藤は当時の思想地図を、一、天皇神権の国学派、二、マンチェスター学派的自由主義者、三、官僚を中心とするドイツ学派、四、フランス啓蒙主義を掲げる民権運動家の4つに色分けしている。
 <では、伊藤自身は?>
 憲法の円滑なる運用に必要なる識量、例へば言論の自由を愛し、議事の公開を愛し、若(もし)くは自家に反対の意見を寛容するの精神の如きは、更に幾多の経験を積み然る後始めて之を得べき也。」(105~106)
 (注3)急進的なリベラリズムないしリバータリアニズムを指している、と思えばよい。
http://cruel.org/econthought/schools/manchester.html
→これも考えてみれば当然のことですが、伊藤は、(日本国民一般がそれを身に着けるのは漸進的にしかできないだろうと指摘しつつ、)一貫して、英国の主流の物の考え方が最もよいと思ってきたということです。
 そして、維新政府首脳達の間で、英国を模範とするとのコンセンサスが成立していた以上、伊藤がそのような考えであったことは不思議でも何でもないのであって、瀧井のように、こういった点をとらえて伊藤を「知の政治家」として「再評価」してもらっても困るというものです。(太田)
(続く)