太田述正コラム#4800(2011.6.10)
<映画評論22:300(その4)>(2011.8.31公開)
しばしばスパルタとは好敵手であるとともに、対蹠的な存在として描かれることの多いアテネを見てみましょう。
まず、アテネの民主制とはいかなるものであったのでしょうか。
紀元前4世紀のアテネの人口は250,000人から300,000人の間であったと目されているところ、そのうち市民は100,000人であり、市民集会(assembly)おいて投票権を有する成人男性数は約30,000人に過ぎませんでした。(紀元前5世紀中ごろにはその数は60,000人くらいであった可能性がありますが、ペロポネソス戦争によって大幅に減少したのです。)
アテネの政治体制は、この市民集会(定足数6,000人が必要な場合があった)のほか、500人からなる枢密院(council)、裁判所(200人から6,000人で運営)から成っていました。
役人達は、一部市民集会によって選挙されたけれど、大部分は抽選で決まりました。
しかし、この政体に対しては、当時のアテネ自身を含むギリシャ世界から、批判が浴びせかけられ続けました。
有権者が少なすぎるという批判ではなく、貧しい無教育な人々が富んだ教育のある人々を支配するのは、適切にして合理的な社会秩序を覆すものであるという批判です。
そして、民主制はアテネが帝国主義的ポリスへと変貌する30年以上前に成立していたけれど、民主制こそが帝国主義をもたらした、という批判がなされたのです。(注7)
(注7)例えば、プラトンは、その対話篇『国家』において、民主制が専制(tyranny=僭主(tyrant)による統治)へと堕すことは必至であるとし、民主制ではなく、哲人王達(Philosopher Kings)を育て上げ、彼らが戦士達(warriors)を率いて職業人達(workers)を統治する政体が最も望ましいと主張した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Plato#The_state
また、アリストレスが、「哲人王」たる専制君主のマケドニアのアレキサンダー大王の師であった
http://en.wikipedia.org/wiki/Aristotle
ことも思い起こされる。
貴族のミレシアス(Milesias)の子のトゥキディデス(Thucydides)(注8)・・あの歴史家のトゥキディデスではない・・は、ペリクレスによるところの、一般市民の人気とりのための壮大な公共事業支出に反対したため、紀元前443年に陶片追放(Ostracism)(注9)に処せられたところです。
(注8)アテネの保守派の重鎮。民主派(ポピュリスト)のペリクレスが、トゥキディデスに対し、それなら、自分のカネで公共事業を行い、でき上ったものの所有権は自分に帰属させれば文句あるまい、と反論したところ、聴衆の大喝さいを浴び、トゥキディデスは討論に敗れ、失脚した。
http://www.mlahanas.de/Greeks/Bios/ThucydidesMilesias.html
(注9)「前古典期のアテナ史は貴族達の集団亡命とクーデターの連続であり、ライバルの一族郎党をアテネから排除して実権を握った貴族は、国外で力を蓄え復讐に燃えるライバルに再び追い落とされるという権力闘争が跡を絶たなかった。こうした状況に終止符を打つため、一族全員の追放ではなく一人だけを追放に処すという緩やかな方式で、集団亡命とクーデターの憎しみの連鎖を断ち切ろうとしたのが陶片追放だった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E7%89%87%E8%BF%BD%E6%94%BE
アテネの帝国主義はまことに暴虐でした。
例えば、アテネは、その臣民になることを拒否したメロス(Melos)の全成人男性を処刑し、女性と子供たちは奴隷として売り飛ばしました。(コラム#909)
これに加えて、現代人たる我々から見ると、アテネの民主制は有権者が少なすぎただけでなく、ギリシャの他のポリスに比べて、奴隷と市民たる女性の地位が有権者たる男性の地位に比べて相対的に最も貶められていた点も問題にせざるをえません。
アテネの市民たる女性と違って、スパルタの市民たる女性は財産を所有できただけではありません。アテネの市民たる女性は運動競技に参加できた日に焼け筋骨隆々のスパルタの市民たる女性を羨望の眼で見ていた、という話がアリストパネス(Aristophanes)の戯曲『女の平和(Lysistra)』(注10)に出てきます。
(注10)アテネにおいて紀元前411年に初演。アテネとスパルタの女性達が手を結び、セックス・ストライキでペロポネソス戦争を終わらせようとするという、あの有名な喜劇。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C
古典ギリシャ世界の中で奴隷の割合が最も多かったのもアテネでした。
現代の英米の知識人の中には、アテネの多数決主義(majoritarianism)は反自由主義的(illiberal)な体制であり、アノミー、分裂主義(balkanization)、排外主義(xenophobia)という批判を投げかける者がいます。
(以上、特に断っていない限り、下掲による。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Athenian_democracy
私もこの見解に賛成ですが、更に一歩進めて、私は、古典ギリシャ世界を代表するところの、対蹠的な存在であると描かれることの多いアテネとスパルタの政体は、実際には極めて似通っていた、と見ているのです。
というのも、両者とも、市民資格を持つ人々が、(フルタイムまたはパートタイムの)兵士として、市民たる女性や市民資格を持たない人々、そして奴隷の上に君臨し、彼らを統治する、という政体であったことには変わりがなかったからです。
違いと言えば、男性たる市民に関し、アテネでは民主制がとられるに至ったけれど、スパルタでは王制と貴族政と民主制の混合体制のまま推移した、という点だけです。
そして、はるか後世における欧州における、貴族(騎士)階級を頂点とする階級制政体と古典ギリシャのポリスの政体は大変似通っているのであって、古典ギリシャの政体についての知識とそれがアレキサンダーやローマの民主主義の痕跡を残した独裁的帝国の政体にとって代わられた、という古典世界についての知識がルネッサンス以降に欧州もたらされたこともあって、欧州における階級制政体が民主主義独裁の政体へと逐次変異して行った、というのが私の見解なのです。
映画『300』ペルシャ戦争(紀元前492~449年)の一局面を題材にしているところ、同戦争は、(民主制へと移行しつつあった)アテネのリーダーシップの下、スパルタ以下のポリスがアテネに協力してペルシャ帝国の侵攻と戦った戦争でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
アテネもスパルタも、はたまたその他のギリシャのポリスも、自分達は文明の体現者であると思い込んでいて、ペルシャ帝国の「非文明性」を見下すとともに、ペルシャ人及びペルシャ帝国の支配下にあった非ギリシャ人に対して人種的優越意識を抱いて戦ったことは、前述したとおりです。
ですから、この映画の製作者にとっての無意識下のテーマは、欧州的なアイデンティティーを古典ギリシャという舞台を借りて再確認する、ということであって、そのような映画が米国で制作され、それなりの興行成績を上げたということは、米国がアングロサクソンと欧州のキメラであることを如実に物語っている、ということにあいなるのです。
(続く)
映画評論22:300(その4)
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