太田述正コラム#4804(2011.6.12)
<映画評論23:ヴィクトリア女王 世紀の愛/眺めのいい部屋(その1)>(2011.9.2公開)
1 始めに
 「英国防大学時代の同僚は、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』や『Mrs Brown』といった恋愛もので攻めてきているので、同じく彼ご推奨の『眺めのいい部屋』を借りてきたついでに、『抱擁』(19世紀の恋愛ものだが、イギリスの話か米国の話かは?)、それに(間違いなく18世紀のイギリスの恋愛話である)『ある公爵夫人の生涯』を借りてきた。さあ、どうなることやら。」、「『眺めのいい部屋』を見終わったところだけど、この映画と『ヴィクトリア女王 世紀の愛』等をあの同僚が僕に推奨したのは、単にこれらの映画がイギリス理解に資するから、というだけではないような気がしてきた。まいったなー。ところで、『眺めのいい部屋』、素晴らしい映画だよ。ぜひ、鑑賞されることを勧める。」(以上、Mixiの太田コミュ)、「 誰か、私に成り代わったつもりで、あるいは独断と偏見の下、同じくこの↑2本の映画を一括りにして評論したコラムを書いて見ないかい? オフ会幹事団によって出来がよいと認められたら、半年間、名誉有料読者にしまっせ。」(コラム#4803)という経緯の下、表記の二つの映画を併せて評論の対象にすることにしました。
 最初に、それぞれの映画を個別に取り上げ、最後に二つ併せて総合的な評論を行って〆たいと思います。
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%A5%B3%E7%8E%8B_%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%84%9B
B:http://en.wikipedia.org/wiki/The_Young_Victoria (事実の誤りが多い。)
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Victoria
D:http://en.wikipedia.org/wiki/Albert,_Prince_Consort
E:http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lamb,_2nd_Viscount_Melbourne
F:http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lamb,_2nd_Viscount_Melbourne
G:http://en.wikipedia.org/wiki/A_Room_with_a_View
H:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%BA%E3%82%81%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%84%E9%83%A8%E5%B1%8B_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
I:http://en.wikipedia.org/wiki/A_Room_with_a_View_(film)
2 ヴィクトリア女王 世紀の愛(The Young Victoria)
 (1)序
 この映画は、英米共同制作(2009年)であり、第82回アカデミー賞で衣装デザイン賞を受賞し、美術賞、メイクアップ賞にノミネートされています。(A)
 (2)抑圧的な親からの独立物語
 ヴィクトリア(Victoria。1819~1901年。英女王:1837~1901年)は、母親のケント侯爵夫人によって極端に保護され、他の子供達から切り離されて育てられました。
 この母親とケント侯爵家の家令のコンロイ(Sir John Conroy)は、父親の親族を含むところの、彼らが好ましからぬとみなした人々にヴィクトリアが面会することを禁じ、ヴィクトリアがか弱い存在であり続け、彼らに依存し続けるように仕向けました。
 ヴィクトリアの亡き父親の兄である叔父の英国王ウィリアム4世に、自分だけでなくヴィクトリアを会わせるのもで極力控えたのは、この母親、女に目がなかったこの国王の庶子達と宮中で遭遇したくなかったことと、恐らく彼女、この頃出現しつつあったヴィクトリア朝的道徳観念にとらわれていて、ヴィクトリアが間違っても性的放縦に流れているように見られないようにしたかったのだと想像されています。
 母親は、ずっとヴィクトリアと寝室を共にしましたし、毎晩決まった時間に家庭教師をやってこさせては、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語等を学ばせました。
 遊びと云えば、人形や犬と過ごすことくらいでした。
 このような抑圧的な母親に対して、次第にヴィクトリアは反抗するようになり、母親がコンロイをヴィクトリアの秘書にしようとした時にはそれを拒否しました。
 また、これは映画には出てきませんが、ヴィクトリアの英女王就任後の1939年のこと、母親の侍女の一人がコンロイと不倫をして妊娠したという噂が立ったところ、この侍女がかつて母親とコンロイに協力して自分を抑圧したことを根に持っていたヴィクトリアは、この噂を信じ、この侍女の検査を命じたところ、彼女が処女であることが分かったという事件が起こっています。
 この事件、政争の具に供され、一時的にヴィクトリアの人気はがた落ちになります。
 なお、間もなくこの侍女が亡くなり、解剖されたところ、肝臓に大きな癌が見つかっています。
 (以上、Cによる。)
 (3)お見合いから転じた恋愛結婚物語
 ヴィクトリアは、英国王のウィリアム4世とベルギー国王レオポルド1世という二人の姪ですが、子供のいないウィリアム4世の後を継いで彼女は英女王に就任する予定であったところ、レオポルドは、彼の妹であるヴィクトリアの母親のヴィクトリアへの影響力が、上記のような事情で急速に衰えつつあったことから、1836年に甥のサックス・コーブルグ・ゴータ(Saxe-Coburg-Gotha)家のアルバート(Prince Albert of Saxe-Coburg and Gotha。後にPrince Consort of the United Kingdom。1819~61年)をヴィクトリアの夫にするためにイギリスにお見合いのために派遣し、あわよくばヴィクトリアと結婚させて、英国にベルギーとの同盟を結ばせようと図りました。
 ヴィクトリアは、この叔父が大好きで何事によらず相談をしていた仲であったこともあり、次第に美男子のアルバートに好意を寄せるようになるのです。
 なお、ヴィクトリアとアルバートが結婚するのは、ウィリアム4世が亡くなり、1837年に18歳にしてヴィクトリアが英女王に就任(戴冠式は1838年)した後の1840年のことでした。
 さて、就任後初めて枢密院(Privy Council)に臨んだヴィクトリアは、「私は若いけれど学ぶ意欲がある。私は我が国と我が国民に奉仕すべく自分の人生を捧げるつもりだ。そのための諸卿の助力を期待する」と語りました。
 その時の首相はホイッグ党のメルボルン卿(William Lamb, 2nd Viscount Melbourne。1779~1848年。英首相:1834年、1835~41年)(E)でしたが、彼は妻を亡くしていて子供もいなかったので、ヴィクトリアにまるで自分の実の娘のような愛情をもって接しました。ヴィクトリアも恐らく彼を父親のように見ていたと考えられています。
 (実際には年の差が40歳もあったのに、映画では、ヴィクトリアとほとんど同世代人として登場します。)
 1839年には、メルボルン卿のホイッグ党が下院で少数派に転落したことから、それまで野党であった保守党・・こちらも必ずしも多数を制していたとは言えなかった・・のサー・ロバート・ピール(Sir Robert Peel, 2nd Baronet。1788~1850年。英首相:1834~35年、1841~46年)(F)に首相の座を譲ろうとしたのですが、時の首相は息のかかった者を国王の侍従(ヴィクトリアの場合は侍女)に送り込むという慣例があったにもかかわらず、改革志向のホイッグ党にシンパシーを抱いていたと目されるヴィクトリアが次の首相と目されたピールが推薦した侍女の受け入れを拒んだため、ピールが首相に就任するのを諦め、メルボルン卿が首相にとどまるという、いわゆる寝室危機(Bedchamber Crisis)が起こっています。
 アルバートは、この間、次第にメルボルン卿に代わってヴィクトリアの最大の相談相手になって行きます。
 ヴィクトリアは、アルバートを深く愛するようになり、1840年についに結婚するのです。
 (4)英王室のトランスフォーメーション成功物語
 ヴィクトリアとアルバートは、9人の子供をもうけ、その子孫から英国、スペイン、スウェーデン、ノルウエー、ユーゴスラヴィア、ロシア、ギリシャ、ルーマニア、そしてドイツの王室に入った者が輩出することになります。
 つまり、二人は、伝統的な君主の最大の事業であるところの、子供をたくさんつくって地理的意味での欧州の他の諸国の王室と血縁関係を結び、自国の影響力の増大と自国を取り巻く国際環境の平和と安定を確保することに(少なくとも第一次世界大戦勃発までの間、)成功したと言ってよいでしょう。
 また、既述したように、ヴィクトリアは、女王として高い志を持ち、また改革志向であったと目されるところ、アルバート自身、ヴィクトリア以上の英国王適任者であったにもかかわらず、当初はアルバートにはほとんど権限らしい権限が与えられなかったものの、時間の経過に伴い、アルバートは、王室の家計や家産を切り盛りするようになるとともに、奴隷制廃止や教育、福祉、産業等の改革の旗頭となり、また、芸術と科学の振興に努め、芸術と科学の祭典たる1851年の大博覧会を挙行することに成功するのです。
 アルバートは、1861年にチフス(恐らくは癌)で42歳の若さで亡くなるまでの約20年間、事実上、英国をヴィクトリアと共同統治した、と言っても過言ではありません。
 (以上、特に断っていない限り、C、D、E、Fを適宜参照しつつBによる。なお、Bは極めて史実の誤りが多かったことをここに記しておく。)
 つまり、ヴィクトリアは、アルバートと協力しつつ、英王室に関し、それが急速に実権を失いつつあった時勢に逆らわず、その一方で、政府の施策が遅れているところを中心に、王室の新しい役割を見出す、というトランスフォーメーションを行うことによって、英王室の延命に成功するとともに、血縁関係を通じて地理的意味での欧州の他の各王室にかかる新しい王室像を普及させることで、これら各王室の延命にも貢献した、と私は思うのです。
(続く)