太田述正コラム#4816(2011.6.18)
<映画評論25:わが命つきるとも(その4)>(2011.9.8公開)
4 トマス・モアの刑死のメッセージ
 (1)イギリス保守主義
 イギリス保守主義の起源は、王政復古期のチャールス2世の時代に、彼の弟のカトリックのジェームスを王位継承者とすべきでないと主張したホイッグ(Whigs)・・イギリス内戦時代の議会派(Roundheads)やスコットランドの長老派(Presbyterian)のイギリス内シンパ(Covenanters)の後継者達・・に対抗し、王位継承者とすることをやむをえないとしたトーリー(Torys)に求められる。
 イギリス保守主義は、18世紀末にフランス革命に対抗するために、穏健なホイッグと古のトーリー的価値観を綜合して生まれた新しい政治哲学であり、エドマンド・バーク(Edmund Burke)や小ピット(Pitt the Younger)が創唱者だ。
 彼らもまた、トーリーと話し言葉では呼ばれるが、本来のトーリーとは違って、伝統主義者(traditionalists)でははい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tory
 以上が、イギリス保守主義についての標準的な説明の要約ですが、英国人評論家のキエロン・オハラ(Kieron O’Hara)は、概略、以下のようにそれを再定義しています。
 第一に、社会は複雑で動的であり、人間の知には限りがあるので、権力は集中されているより分散されている方が良いし、第二に、社会構造(Social structures)は壊すのは簡単だが構築することは容易ではないので、改革は、リスク回避的に、漸進的に、かつ後戻り可能なように、かつまた厳格な評価を行いつつ、実施されるべきである、という考え方が(イギリス)保守主義である。
 換言すれば、それは懐疑主義的で管理可能な変化にこだわり、急進的変化を断行することはいかなる善意の下であれ賢明ではない、という考え方である。
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/2da55d7a-9673-11e0-afc5-00144feab49a.html#axzz1PaQ8GWaG
(6月18日アクセス)
 なお、伝統主義であるかどうかは、イギリスの場合、ほとんど意味がないのではないでしょうか。
 イギリスと日本は、伝統を再定義しつつ復古を掲げて進歩を遂げることができ、実際遂げてきた、他に余り例を見ないユニークな二つの文明である、と私は考えているからです。
 (2)イギリス保守主義の始祖としてのトマス・モア
 誰も言っていないことですが、私は、トマス・モアは、刑死の危険を避けなかったことで、イギリス保守主義の始祖となったと考えることができるのではないかと思うのです。
 そういう目で『ユートピア』を改めて見てみると、それは、プラトン/アリストテレスゆずりの(哲人王が統治する)アテネ/スパルタ的理想社会(コラム#4800)の装い・・韜晦と言うべきか・・の下にイギリス人が抱く伝統的な理想社会観を(とりわけ個人主義社会ではなく人間主義社会として)祖述したものであって、欧州文明に対する批判・・階級制下の搾取やカトリック教会と癒着した絶対王政に対する批判・・を含意していた、と受け止めることができます。
 そして私は、モアは、かかる理想社会を、ヘンリー8世を哲人王に育て上げることで、イギリスにおいて漸進的に実現しようとした、と考えるわけです。
 だからこそ、ヘンリー8世が離婚をしたり再婚したりすることへのカトリック教会の容喙をはねのけようとしたことについては、その性急さには危惧の念を抱きつつも、大法官たる(政教分離志向の)モアとしては、反対はしなかったのです。
 また、大法官たる彼がイギリスのプロテスタントの弾圧を積極的に行ったのは、プロテスタントの諸教会は、カトリック教会以上に政治との癒着志向・・神政国家志向・・が見られて危険である、とモアが判断していたからではないでしょうか。(この点は、裏付けが欲しいところですが・・。)
 そんなモアが、一転、英国王をイギリス内のキリスト教会の長とすること・・英国王の至上性・・には、死をかけてまで首を盾にふらなかったのはどう説明すべきか。
 それが急進的改革であったことにモアが危惧の念を持ったからであったことは容易に想像できますが、より根本的には、それが政教分離を理想とするモアの考え・・それはイギリス人の伝統的な宗教的寛容主義の考え方に合致していた・・と相容れなかったからだ、という説明ができそうです。
 もっとも、(ヘンリー8世の離婚・再婚や英国王の至上性がどちらも議会の法律によって正当化されたこともそうですが、)最初から刑死ありきではなく、モアは法学者として、自分の命を守るために、法の一般理論やイギリス法の知識を駆使して闘うのですが、「偽証」によって、目論見が外れてしまったことは、前述したとおりです。
 彼の有罪の評決が陪審員によってなされたことも含め、イギリスにおける法の支配が、当時既に相当程度確立していたように見受けられることも興味深いところです。
 とまれ、モアの刑死の23年後に、モアが追求したところの、十二分に教育を受けた女性哲人王ならぬエリザベス1世が即位して宗教的に寛容な政治をイギリスで行うことで、モアの刑死は報われたと言っていいでしょうし、私見では、モアの刑死は、17世紀のイギリスにおける保守主義の生誕にも資したと評価できそうなのですから、モアはもって瞑すべきでしょう。
5 終わりに
 最後に一言。
 冒頭の方で、モア「が抱懐する哲学<は>・・・カトリシズム」であると記しましたが、正確に言えば、イギリス流の自然宗教的に再解釈されたカトリシズムであって、モアの本心に即して言えば、カトリシズムの異端でした。(注6)
 (注6)彼を刑死させたヘンリー8世もその時点ではカトリシズムの異端であったから、カトリシズムの異端がカトリシズムのもう一つの異端を殺害した、ということになる。
 カトリシズムは、キリスト教のプラトン/アリストテレス的再構成であると言える(典拠省略)ことから、米哲学助教が挙げた「殉教」は、ことごとくギリシャ古典哲学が直接的間接的下手人である、と言えそうだ。
 ですから、エラスムスの『痴愚神礼賛』が異端の書として発禁になったぐらいなのですから、少なくとも『ユートピア』が法王庁によって発禁になっていても不思議ではなかったのです。
 にもかかわらず、法王庁は、後世、モアが刑死したことをとらえて、彼を聖人に列したのですから、これを歴史の皮肉と言わずして何でしょうか。
(完)