太田述正コラム#4918(2011.8.8)
<イギリスと騎士道(その5)>(2011.10.29公開)
 「・・・次第に騎士道は衰退した。
 騎士道はカネの嵩む営みであり、郷紳(gentry)や小貴族(lesser nobility)や法律家達、吏員(clerk)達、そして執事(senior household servant)達、といった都市の専門職達のような新しい階級群が出現した。
 貴族の尺度として、徳と平和的諸活動が、家系と武器をとった時の武勇にとって代わり始めたのだ。
 中世末の戦争は、より血が多く流される性格のものとなった。
 長弓射手達(longbowmen)<(コラム#4879)>の配備は、騎士により多数の死傷を与え、他方で、傭兵(paid soldiers)や規律の向上は、ヘンリー5世をして、彼の騎士達が身代金によって得られるであろう利潤を奪われるというのに、アジンコートの戦いにおいて、「フランス軍による再攻撃の噂があるとして<フランス軍の>捕虜達を殺害せよとの命令を発することを可能ならしめた」。
 その後起こったバラ戦争は、貴族達の間で復讐のための殺害の流行をもたらしたが、最も重要なことは、「中世の名誉に立脚した自己認証的な(self-authenticating)社会」を掘り崩したところの、国王権力の中央集権化だった。」(B)
 「宮廷におけるゲームは、14世紀後半を騎士として生きようとした男達が直面した劇的な様々な挑戦を隠すことはできなかった。
 黒死病(1348~49年)<(コラム#25、54、397、398、1586、2503、2550、2860、3126、4822、4887)>は、経済をひっくり返し、様々な社会関係を揺るがせた。
 土地はその価値を失い、多くの農奴達は町や都市に流入した。
 領主達は、ビジネスマンのような対応を行い、耕地から牧地へと移動し、鉱業、漁業、兎の養殖・販売、就中、羊毛の輸出と拓殖(exploitation)の将来性(prospects)、に賭けた(develop)。
 必要性に迫られて、法廷で専門職的にふるまうことや、ランスロット(Lancelot)とガウェイン(Gawain)の事績<(後出)>を諳んじることができた者達で、乗馬して刀を振り回すよう育てられた人々に対して、以前はありえなかったところの、土地の生産物に係る価格の変動や需要の動向を追いかけるためにお呼びがかかるようになった。
 ぴかぴかの甲冑を纏った騎士達は、商人達、銀行家達、法律家達と、次第により多く関わるようになった。
 今度は、これらの専門職の人々の地位と富が上昇した。
 ノーフォーク(Norfolk)のパストン(paston)家<(注5)>の人々のような、非軍事で名声を博した(of epistolary fame)ところの最も成功を収めた人々は、騎士の階級へと上昇した。
 (注5)一介の小農民であった「初代」が息子に法律家としての教育を受けさせ、その息子が政略的結婚を行ったこともあって土地財産を増やし、孫はケンブリッジに行って法律家になり、またもや政略的結婚を行ったこともあって土地財産を増やし、地元出身の騎士にロンドンで取り入り、彼の遺産の主要相続人となり、おかげで騎士になる。
http://www.bbc.co.uk/history/british/middle_ages/pastonletters_01.shtml
 こういう騎士達は、怒ると刀よりも羽ペンを振り上げる可能性の方が高かった。」(A)
 (5)騎士道に関する本や物語
 ワリック州(Warwickshire)の男であったサー・トマス・マロリー(Thomas Malory)<(注6)>は、1469~70年に書かれた『アーサー王の死(Mort d’Arthur)』の中で、騎士道を超えた世界に向けて、騎士道の最も偉大な様々な瞬間の要約を提供した。・・・
 マロリーのスポンサー達はロンドンの商人達だった。
 (注6)1405?~71年。作家、騎士、地主、下院議員。
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Malory
 そのうちの一人であった、絹織物商人(mercer)のウィリアム・キャクストン(William Caxton)<(注7)>は、この種の文学を印刷して出版した場合にどれくらい売れるかが分かっていた。
 (注7)1415?-1422?~1492年?。イギリスの商人、外交官、作家、イギリス最初の印刷業者に本の小売業者。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Caxton
 1485年版への序文の中で、彼は、読者達に、「高貴な騎士道、礼儀(courtesy)、人道性(humanity)、親切(friendliness)、耐久力(hardiness)、愛、友情、臆病、殺人、憎しみ、徳、そして罪」をその中で発見するであろうことを約束した。・・・
 1354年に初代ランカスター公爵のグロスモントのヘンリー(Henry of Grosmont)<(注8)>は、その中で、自分の傷ついた魂のための慰めの香油(balm)を求めてキリストと聖処女マリアに訴えたところの、祈祷書(devotional book)を書いた。
 (注8)1310?~61年。貴族、著名な外交官、政治家、軍人。英仏百年戦争の初期においてエドワード3世に最も信頼された指揮官。1351年から52年にかけて、プロイセンにおいて<ドイツ騎士団の(太田)>十字軍生活を送っている。彼の著書は『Livre de seyntz medicines(Book of the Holy Doctors)』(1354年)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_of_Grosmont,_1st_Duke_of_Lancaster
 その傷は、偉大なる騎士の生活そのものであったところの、官能への耽溺(indulgence of the senses)がもたらしたものだった。
 <そのほかの騎士道に関する本や物語としては、>もう一人の十字軍従事者のサー・ジョン・クランヴァウ(Sir John Clanvow)<(注9)>は、1373年に書いた『二つの道(The Two Ways)』・・・ロビン・フッド(Robin Hood)<物語(コラム#3137、3467、4007、4197)、そして、>・・・キャメロット(Camelot)<(=アーサー王の宮廷があったという伝説上の町=アーサー王物語)、があげられる。>」(A)
 (注9)1341~91年。イギリスのヘアフォード州(Herefordshire)の騎士。
http://histfam.familysearch.org/getperson.php?personID=I25011&tree=Welsh
 グロスモントのヘンリーと似通った趣旨のこの本を書いている。1390年にチュニス十字軍に加わり、翌年、コンスタンティノープルで死去している。
http://books.google.co.jp/books?id=87inL4Cd4wgC&pg=PA264&lpg=PA264&dq=sir+john+clanvow;the+two+ways&source=bl&ots=l3vmrV2qxF&sig=UqVhDLBrv07S-VElOuaZXmT9wiE&hl=ja&ei=Lto_TqKBHYXzmAXs0v2WCA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CCEQ6AEwAQ#v=onepage&q=sir%20john%20clanvow%3Bthe%20two%20ways&f=false
→騎士道に関する本や物語の中にも、イギリス以外のものが全く登場しませんね。(太田)
(続く)