太田述正コラム#4950(2011.8.24)
<赤露による支那侵略(その6)>(2011.11.14公開)
 孫文大学の教育は、中国革命の幹部養成のためという設立目的と緊急性を反映し、マルクス・レーニン主義的社会科学、党・運動論の教科を短期集中的に教授するものであり、いわば、「革命政治学部」単科の短期大学と言うことができよう。・・・
 留学生の政党所属は、渡航時は国民党員が大多数であったが、入学後のソ連の環境、中共の浸透・統制、大学当局の方針により、共産党員が優勢となっていったといわれる。もっとも、国共党内合作の結果、国民党員として選抜・派遣されたものの中には相当数の共産党・共清団員が含まれていたはずである。・・・第一期生の68%が中共系であったと<いう>推定<もあ>る。・・・
 蒋介石の<1927年の>「四・一二」反共クーデター<の後、>・・・ロシア共産党政治局では、6月17日の会議で右派68名・・・の送還を決定した。・・・卒業生・・・については、・・・国民党左派・共産党員学生64名を武漢国民政府<(注15)>に送り、また、共産党員・共青団員学生100名以上を夏期軍事訓練終了後、ソ連国内の軍学校に入れて各種兵科を学習させると決定した。
 (注15)「<武漢国民政府は、>1926年蒋介石率いる国民革命軍の北伐軍が武漢を占領し、同年12月汪兆銘<(下掲)>らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して成立した。1927年4月蒋介石ら国民党右派が反共クーデターを起こし(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧、対立した。その後、経済不安や土地革命をめぐる共産党との対立によって、武漢政府も共産党を弾圧して同年7月に反共方針を明確化(国共分離)・分裂し、同年9月南京政府に合流した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BC%A2%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%BA%9C
 「汪兆銘<(1883~1944年)は>・・・清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。・・・1925年・・・の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。・・・孫文の死後、汪は広東<(=広州)>で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任する。この政府には、毛沢東ら中国共産党メンバーも参加していた(のち北伐開始後、政府は武漢に移る)。・・・1926年・・・3月、中山艦事件<(下掲)>により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命した<が、>・・・1927年・・・4月1日、蒋介石の招電に応じ、再度帰国。・・・同年に「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも孫<文>総理の連共政策をうたがうことはできない。」と発表。<ところが、>この直後の4月12日に蒋介石は上海クーデターにより共産党の弾圧に乗り出した。さらに蒋は4月18日、南京に国民政府を組織して、共産党の影響が強い武漢政府から離反した。汪は武漢政府に残ったが、やがて「共産党との分離」を決意し、・・・「反共産党」で一致したことから、武漢政府と南京政府の・・・は合体することとなった。・・・しかし<、やがて>共産党の広東蜂起の混乱の責任をとって汪は政界引退を表明し、再びフランスへ外遊することとなる。一方国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が生じる。汪は反蒋派から出馬を請われて・・・1930年<に>・・・帰国<するが、>・・・国民党から除名処分を受ける。汪はしばらく香港に蟄居していたが、・・・1931年・・・5月、反蒋派が結集した広東国民政府に参画した。満州事変を機に蒋政府との統一の機運が高まり、・・・1932年・・・1月1日、蒋と汪が中心となる南京国民政府が成立した。・・・1933年・・・5月、汪は関東軍の熱河侵攻に伴う塘沽停戦協定の締結に関わった。実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
 「1926年1月1日広州において中国国民党第二次全国代表大会が開催され、蒋介石は北伐の実行を力説した<が、>共産勢力による抵抗のため却下された・・・。1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長<たる>共産党員・・・をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し・・・武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。この事件をきっかけに蒋介石の党内の地位は急速に上昇して<行き、>・・・国民党軍事委員会主席に就任し、党内の実権を握っていった。・・・<そして、>共産党員を国民党の訓令に絶対服従させるとともに、国民党の要職から共産党員を排除していく。共産党員は当然これに反撥したが、スターリンの意向を受けたソ連軍事顧問団はこれを抑制<し、>・・・蒋介石に妥協している。・・・<その上で、>蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、同年7月1日共産勢力に阻まれていた「北伐宣言」を発表して北伐戦争を開始し<、>・・・翌1927年には武漢・南京・上海などを占領する。しかし、蒋介石の指導に党内で反蒋的な空気が醸成され、解放された武漢や上海では共産党員・国民党員らが蒋介石から独立した動きを見せるようになり、南昌に本拠を移した蒋介石に対抗した。さらに共産主義者による南京事件<(コラム#3803、3932、4272、4504、4510、4524、4532、4534、4610、4691)>勃発により欧米の非難をこうむると4月12日・・・上海で大規模な共産党員弾圧(上海クーデター)<を>開始<し>、第一次国共合作の崩壊が始まった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E8%89%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 一見複雑だが、日本留学経験者としてごく自然に漸進的自由民主主義者となったと考えられる汪兆銘と、日本留学経験者としてはできそこないと言わざるをえないところの、独裁志向の強かった蒋介石、という二人の間の抗争を軸として、孫文死後の戦間期における中国国民党史を見て行けばよいのではあるまいか。
 蒋は、一時共産主義に心酔するも、もともと権力亡者であっただけでなく(宋一族との関係もあって)カネにも執着があったことから資本主義独裁(要はファシズム)を志向するに至ったところ、汪は、当分の間、このファシスト的な蒋一派に対して党内の共産主義勢力を対抗させることで、中国国民党におけるバランサーたる自分の一派の権力を維持しつつ、同党を自由民主主義政党へと漸進的に脱皮させていくことを目論んでいたが、蒋に先手を打たれて党内の共産主義勢力を排除されてしまった、そこで、汪は自由民主主義日本との提携路線を積極的に追求し始めた、と解するわけだ。
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 ソ連指導部は、なお武漢政府に期待をかけ、その梃入れを図る一方、軍事訓練を受けた革命幹部を養成しようと考えたのである。
 だが、7月15日には武漢国民政府も反共に転じ、ソ連・共産党の中国革命の希望は潰え去った。・・・武漢側は7月26日の特別通告で国民党員の孫文大学在学を禁止し、国民党員239名はこれに従い、8月、帰国の途にたった。また国民党員のうち50名は残留を望み、共産党・共青団に加わった。・・・
 かくして国共合作とソ連の国民党援助の下で行なわれた中国国民革命運動は、モスクワの地において終わりを告げ、留学生たちは、分化していくことになった。・・・
 孫文大学の修了期間は、原則2年であったが、1925年末の入学者は1年半後の27年夏に繰り上げ卒業し・・・た。・・・
 1927年夏以降、孫文大学は・・・純粋の共産主義幹部育成機関に変化した。そして、28年10月頃には、中国勤労者共産主義大学・・・と改称された。・・・
 1930年秋、モスクワ孫文大学は正式に廃校された。・・・
 このような民国期における中国人のソ連留学は、全体として何をもたらしたのか・・・。
 第一に、ソ連留学は、中国共産党の幹部養成に大きな役割をはたした。
 ・・・1920~40年代の中共指導者で留学経験者118名のうち、ソ連留学は80名(約7割)となり、そのうち半数を超える47名が中央委員会委員、同候補、政治局員となっている。・・・
 <ちなみに、>孫文大学の<卒業生中の>・・・共産党系学生は推薦でモスクワ・レニングラードなどの各種軍学校に進学できた。伍修権<(注16)>、・・・蒋経国など<(注17)>である。また、・・・試験を経て、大学院レベルの<学校>に進学した。
 (注16)Wu Xiuquan。1908~97年。「1931年帰国・共産党入党,・・・<中共>建国後外交部副部長,軍副参謀長」
http://homepage2.nifty.com/ryurinsya/1wuxiuquan.htm
 (注17)Chiang Ching-kuo。1910~88年。五・三0事件(五州運動。5.30~1926.10)に「に積極的に関与している。その後、<15歳の時に>中国共産党に入党する。同年10月に・・・モスクワ中山大学に留学し、・・・留学中に・・・ソビエト共産党にも正式に入党する・・・父・蒋介石が起こした上海クーデターによって中国国民党と中国共産党が敵対関係に入ると、ヨシフ・スターリンより事実上の人質にされ、またスターリンとレフ・トロツキーの権力闘争ではシベリアに送られるなどの体験をしている。また現地でロシア人女性・・・と結婚している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E7%B5%8C%E5%9B%BD
 このようにソ連を知悉した結果、彼は共産主義に完全に幻滅したと考えられる。その後帰国した蒋経国は、他のソ連留学者達とともに中国国民党のファシスト政党化を完成させる(ウィキペディア上掲、及び後出)が、その彼が台湾総統時に台湾の自由民主主義化に着手するに至った理由は、1978年までは正式の、それ以降も事実上の同盟国であった米国の影響もあったであろうが、戦前日本臣民であった本省人たる李登輝等の影響の方が大きい、と考えられる。
 勤務では、・・・コミンテルン東方部や保安機関などに任用されるものもいた。・・・
 第二に、ソ連留学は、特殊ソビエト的な共産党とその運動のありかた、ボリシェヴィキ的党組織論とスターリン的党内闘争・粛清技術の中国への移転をもたらした。・・・
 第三に、ソ連留学が国民党に与えた影響は、ロシア語及びソ連事情、共産党の組織と戦略に通じる一連の人材を生み出したことにあると考えられる。・・・
 興味深いのは、30~40年代において、三民主義力行社(いわゆる「藍衣社」)、特務機構、三民主義青年団の組織など国民党の党組織強化及び軍政治工作にはたした彼らの役割である。これは、国民党「ファシズム」と非難されることも多いが、その組織と活動の中心となったのは・・・何れも20年代にソ連に留学した党・軍幹部であった。また、1950年代、<中国>国民党が蒋経国の主導下に特務系統と軍・政系統を整備し、戦後内戦での敗北、大陸喪失の混乱の後に台湾で統制国家を確立できたのも、彼の12年にわたるソ連での経験の影響が指摘される。・・・彼らは、ソ連留学で得たソビエト体制・共産党の知識と経験をソ連側の意図とは逆に–「レーニン主義から三民主義へ」–利用したものと解釈できよう。・・・
→筆者は「国民党「ファシズム」」という婉曲表現を用いていますが、「国民党のファシスト政党化の完成」ととらえるべきでしょう。(太田)
 なお、1988年の学生・市民の民主化運動に際して共産党の絶対的権力を守るために暴力装置を発動して弾圧を行った責任者の鄧小平、楊尚昆は1920年代の、李鵬は50年代のソ連留学出身であった。これは、中国における党=国家体制の形成と存続の上で「ソ連・・・の権力を守る暴力装置の力に・・・学んだ」要因の大きさを示唆していると考えられる。」(188、191、194~195、197~198、200、203~206、212、219頁)
4 終わりに
 中国共産党の長征中の1935年8月1日、王明(Wang Ming。1904~74年)率いる中国共産党コミンテルン代表団は、スターリンとコミンテルン・・要するに赤露です・・の承認の下、第二次国共合作を呼び掛けた八一宣言(Ba Yi Xuan Yan=August 1 Declaration)を行いましたが、毛沢東はこれを無視しました。
 蒋介石が中国共産党討伐を優先してそれに成功する寸前であった1936年12月12日に西安事件が起こり、蒋介石が、部下の張学良(Zhang Xueliang)に拘禁される
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
わけですが、張は中国共産党の秘密党員であったという説が最近有力になってきています。
 仮にそうだったとすると、張は、中国共産党からの指示で西安事件を起こしたということになるわけです。
 その中国共産党は、蒋を殺害すべきだとする毛沢東や朱徳(Zhu De)らと、反日運動に与える影響を心配して殺害するのに反対した周恩来(Zhou Enlai)や張聞天(Zhang Wentian。1900~76年)らに分かれていましたが、スターリンの指導で殺害しないことに決します。
 そして、中国共産党は、周恩来(Zhou Enlai。1898~1976年。日本に2年間留学するも大学入試に失敗し帰国。フランス遊学中の1921年に中国共産党入党。元黄埔軍官学校政治部副主任)、葉剣英(Ye Jianying。1897~1986年。1919年に中国国民党入党。元黄埔軍官学校教官。1927年に中国共産党入党)と秦邦憲(Qin Bangxian。1907~46年。孫文大学留学) を西安に派遣して蒋介石と交渉をさせるのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Xi%27an_incident
http://en.wikipedia.org/wiki/Ba_Yi_Xuan_Yan
http://en.wikipedia.org/wiki/Wang_Ming
http://en.wikipedia.org/wiki/Zhang_Wentian
http://en.wikipedia.org/wiki/Zhou_Enlai
http://en.wikipedia.org/wiki/Ye_Jianying
http://en.wikipedia.org/wiki/Qin_Bangxian
 これは私見ですが、周と葉は蒋介石の黄埔軍官学校校長時代の部下であったからこそ派遣されたのでしょうし、秦はこの2人の赤露直系のお目付け役といったところでしょうか。
 周と葉の恐らくは情に訴えた説得と、これに加えて、西安に駆けつけてきていたところの、蒋の命を心配していた、蒋の妻の宋美齢(Soong May-ling)の蒋への懇願
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
・・これも私見ですが、中国国民党内の容共分子の彼女への働きかけもあったことでしょう・・もあって、蒋は、しぶしぶ第二次国共合作に同意するのです。
 まさに、戦間期の支那は、赤露と日本との間の、激しい、熱戦冷戦両面にわたる戦いの舞台であったわけであり、孫文の私党として始まった中国国民党は、紆余曲折はあったものの、赤露が打っていた数多くの布石が結局は功を奏して、支那におけるフロントとしての役割を十二分に果たし、(赤露の策略に乗ぜられた米国や英国の反日的愚行とあいまって、)赤露は、物の見事に初期の計画通り、支那の侵略に成功するわけです。
(完)