太田述正コラム#4952(2011.8.25)
<戦間期日英関係の軌跡(その1)>(2011.11.15公開)
1 始めに
 今度は、XXXXさん提供の後藤春美『上海をめぐる日英関係1925‐1932年』(東京大学出版会 2006年11月)の抜粋からの紹介です。
 事柄の性格上、既出の話が再出することも少なくありませんが、日英が離間した過程を明らかにしている歴史書を等閑視するわけにはいきません。
 著者は、「東京都生まれ。1993年東京大学大学院総合文化研究科国際関係論専攻博士課程単位取得満期退学。1994年オックスフォード大学セント・アントニーズ校<(注1)>・・・D.Phil.・・・<現在、>東京大学大学院総合文化研究科アメリカ太平洋地域研究センター教授。」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%98%A5%E7%BE%8E
 (注1)1988年の英国留学当時、同校のフェローをしていた知人のドイツ人の招きで同校を訪問し、教授陣と学生達が一緒にとる夕食会とその後の教授陣だけでの食後酒を嗜む2次会に出席したことがある。
2 上海をめぐる日英関係1925‐1932年
 「<第一次世界大戦中、日本とイギリスの>両者の関係は冷却の方向に向かっていった。その原因としては、少なくとも四つのことがあげられる。
 第一に、中国問題である。・・・
 日本は、・・・1915年1月、対華21カ条要求<(コラム#713、4598、4602)>を袁世凱政権に突きつけた。・・・<要求中、>特に・・・南昌杭州間や南昌潮州間などの鉄道敷設権を日本に与えること・・・は、イギリスがすでに獲得していた南昌・潮州・広州間の鉄道優先権と競合するものであった。イギリスはこの「希望条項」の撤回を日本に働きかけた。しかし、大戦に手一杯で中国問題に深くかかわる余力はなかった。<(注1)>
 (注1)これは、世情、英国は「希望条項」にも暗黙の同意を与えた、と言う。(コラム#713参照)
 第二<に、日本が十分戦争協力を行おうとしない、とイギリスが感じたことだ。(その「戦争協力」の実態については、コラム#4270、4538、4540、4542参照。)>・・・
 第三<に、>・・・日本のドイツに対する態度が生ぬるいと考えられたこともあげられる。イギリスは、山東半島から日本に移送されたドイツ人捕虜が収容所に入れられなかったこと、日本の新聞に反ドイツ的というよりは反英的な論調の多いことを非難し、寺内正毅内閣で内相や外相を務めた後藤新平<(注2)(コラム#52、3259、4602、4604、4637、4936)>など親ドイツ的な人物が多いことにも疑念を持った。
 (注2)1857~1929年。内務省衛生局長。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。もともとは医師。ドイツ留学。「1923年・・・東京市長時代に国民外交の旗手として後藤・ヨッフェ会談<(コラム#4936)>を伊豆の熱海で行い、成立せんとしていたソビエト連邦との国交正常化の契機を作った。・・・一部から新平は「赤い男爵」といわれたが、あくまで日本とロシアの国民の友好を唱え、共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れず、むしろソビエト・ロシアの体制を軟化させるために、日露関係が正常化される事を展望していた。・・・1928年・・・後藤は・・・ボーイスカウト日本連盟・・・会長として・・・ソ連を訪問しスターリンと会見、国賓待遇を受け・・・日中露の結合関係の重要性<を訴えた。(コラム#4936)>・・・後の満鉄総裁・松岡洋右が日ソ中立条約締結に訪ソした際「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」と、ソ連側から盗聴されていることを知りつつわざと大声で叫んだとされる。・・・晩年は・・・数の論理で支配される政党政治を批判し<ていた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
 <以上に加えてこういうこともあった。>・・・大戦が勃発するとインド民族主義者の活動<が>一層活発となった<ところ、>・・・1915年2月にはシンガポール駐在のインド第五軽歩兵隊(Indian Fifth Light Infatry)が反乱を起こし、イギリス人将校が殺害されるという事件が起こった。この際、日本海軍はイギリス海軍司令官の要請を受け、反乱鎮圧のために上陸した<(コラム#4542)>。この結果、日本はイギリス、インド民族主義者の双方から非難されることとなった。イギリスは、日本の救援が遅く、事件が終結するまで到着しなかったとし、インドの独立派は、アジア人の願望を理解すべき日本がイギリスを助けようとしたと憤ったのである。
 やはり同じく1915年の6月には、訳2年半前にインド総督ハーディング男爵(1st Baron Hardinge of Penshurst)の暗殺を企て重傷を負わせたビハリ・ボース(Rash Behari Bose)<(注3)>が日本に亡命した。・・・イギリスには<その際の>日本政府の対応も消極的で非協力的なものに思われた。さらに、・・・イギリスの強い要求によって日本政府がボースらの引き渡しに応じそうになると、朝日新聞、犬養毅らの政治家、玄洋社の頭山満、内田良平、インド研究者の大川周明などが同情し、彼らをかくまうなど支援の手をさしのべた。イギリスはこの動きの背後に後藤新平がいると考えた。後藤は親ドイツ的というだけでなく、日本の汎アジア主義的団体を支持し、ボースらに同情的であるという理由でも、イギリスでは非常に評判が悪かった。
 (注3)ラス・ビハリ・ボース(Rash Behari Bose。1846~1945年)。「日本に本格的なインドカレーを伝えた人物としても有名である。・・・やがて頭山らの働きかけもあり、1915年に日本政府はラースの国外退去命令を撤回した。しかしイギリス政府による追及の手は1918年末まで続き、日本各地を転々とした。1918年にボースは・・・新宿中村屋<の>・・・相馬夫妻の娘・・・と結婚し、1923年には日本に帰化した。・・・1943年7月4日にシンガポールにお<いて、>インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を、・・・亡命先のドイツからシンガポールへ来<てい>たスバス・チャンドラ・ボースに移譲し、自らはインド独立連盟の名誉総裁となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9
→人にとって留学先は重要であり、往々にしてそれは爾後の人生を規定してしまいます。後藤の場合も、ドイツに留学したことが、その後の民主主義独裁に甘い彼を形成した可能性が否定できません。いずれにせよ、彼の言動を見ると、彼は植民地や地方行政や団体運営の達人ではあっても、国政にあずかる器量はなかった、と断ぜざるをえません。英国は、後藤のインド独立運動家への支援ももとよりですが、そもそも、彼が反英的、つまりは、反自由民主主義的であったからこそ、後藤を毛嫌いしたのでしょう。(太田)
 <更にまた、>大戦中にはイギリスを初めとするヨーロッパ列強の輸出が減少したため、日本は経済的にも利益を得た。すでに日本の綿工業などは輸出が可能なだけの力をつけていた。この結果、イギリスと日本の経済競争の可能性もますます大きくなった。両国ともに中国を潜在的可能性のある有望市場と考えていたが、中国人大衆の購買力は低く、人口の割に実際の市場規模はそれほど大きくなかったからである。
 第一次世界大戦後、・・・さらに状況を悪くしたのは、1925年にスタンリー・ボールドウィン(Stanley Baldwin)保守党内閣の蔵相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)のもと、イギリスが大戦前の平価で金本位制に復帰した<(コラム#4588、4695))>ことであった。ポンドが過大評価され、経済力が低下していたイギリスからの輸出は、1925年から1930年にかけて中国のみならず世界全体に対して急速に減少していった。」(20~23頁)
→要は、第一次世界大戦頃には、大英帝国が、インドにおける独立機運の高まりと、英本国の経済力の相対的衰退により、上昇しつつあった日本帝国に軍事的にも経済的にも脅威を覚え始めたことが、即、日英関係の冷却化をもたらし始めた、ということです。(太田)
(続く)