太田述正コラム#4954(2011.8.26)
<戦間期日英関係の軌跡(その2)>(2011.11.16公開)
 「パリ講和会議後、・・・イギリス外務省では、日本との結びつきがイギリスに何らの利益ももたらさないという考えが主流<になってい>たようである。彼らは、国際連盟が取り決めた集団安全保障の理念と、日英同盟のような特殊取り決めが両立し得ないということを口実に、翌年7月に満期に達する日英同盟を自然消滅させようと考えていた。・・・
 1920年6月、イギリスは、日英同盟協約が満期を迎えた後は国際連盟規約と矛盾しない形でのみ継続され得る、と連名に共同で通知することを日本に提案した。日本はこの考えに同意したが、同時に、この共同宣言には両国が原則として同盟の継続を望むことも含ませるべきだと論じた。そこでイギリス外相カーズン伯爵(1st Earl Carzon of Kedleston, 1921年以降は侯爵 1st Marquis Carzon of kedleston)<(コラム#4386、4532、4651、4717、4741)(注4)>は、「もし1921年7月以降に継続される場合には(if the said Agreement be continued after July 1921)」という表現を提案した。
 (注4)=カーゾン卿(George Nathaniel Curzon, 1st Marquess Curzon of Kedleston。1859~1925年)。英保守党政治家・インド副王・外相。
http://en.wikipedia.org/wiki/George_Curzon,_1st_Marquess_Curzon_of_Kedleston
 ・・・<ところが、>カーズンが珍田捨巳<(コラム#4270、4538、4540、4542)(注5)>駐英大使と合意文書に署名する頃には、イギリス外務省の法律顧問が、この宣言は法的には同盟を否定するに等しく、同盟は1921年には修正されるか終結されなければならないと言い出してい<て、>・・・これがイギリス外務省の解釈となっていた。すなわち、日英同盟協約を終結させるのに必要な「廃棄一年前の通告」が1920年7月になされたのであり、何もしなければ同盟は1921年7月で自然消滅するというのであった。・・・
 (注5)1857~1929年。弘前藩出身で米国アスベリー大学で4年間学ぶ。キリスト教牧師(メソジスト派)を経て外務省入省。侍従長、枢密顧問官、外務次官を歴任。伯爵。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%8D%E7%94%B0%E6%8D%A8%E5%B7%B3
 なお、このウィキペィデアには、珍田が駐英大使を勤めた経歴が記されていない!
 日英同盟をどうするか、イギリスは自治領諸国の参加する帝国会議に諮らねばならなかった。この帝国会議は、1921年6月半ばに開催が予定されていた。イギリスは、会議開催と日英同盟自然消滅の予定があまりにも時間的に接近しすぎており、十分議論が尽くせないかもしれないと考えた。そこで、1921年5月9日、カーズンは・・・珍田の後任である林権助<(注6)>駐英大使・・・を呼んで日英同盟を3ヵ月だけ延長することを提案した。イギリス外務省が考えていたのは自らの帝国内の事情のみであり、同盟相手である日本への配慮はほとんどなかった。
 (注6)1860~39年。会津藩出身で東大卒後外務省入省。枢密顧問官。男爵。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%A8%A9%E5%8A%A9
 イギリスの提案は、依然同盟の存続を望んでいた日本にとっては晴天の霹靂であった。・・・
 ただし、カーズン自身は必ずしも同盟の継続に反対ではなく、イギリス側法律専門家の意見に懐疑的であった。・・・
 <この>イギリス外務省のもくろみの実現を阻んだのは、日本の反論ではなく、日英同盟や地理的制約下での日本の第一次世界大戦中の貢献を評価していたロイド=ジョージ<(コラム#3282、3772、4532、4544、4630、4633、4775)(注7)>らイギリス政府首脳であった。6月30日午前の閣議で、ロイド=ジョージは、国際連盟への通告を同盟廃棄の通告と等しいと見なすことで、不必要な困難が生み出されたと述べた。閣議では、大法官(Lord Chancellor)のバーケンヘッドはロイド=ジョージと親しく、彼も、連盟への通告が廃棄宣言に等しいなどというのは「驚くべき解釈だ」と述べた。・・・
 (注7)デビッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor。1863~1945年)。ウェールズ出身。無学歴。弁護士から英自由党政治家へ。軍需相、陸相、蔵相、首相(1916~22年)を歴任。
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Lloyd_George
 しかし、・・・中国で活動するイギリスの経済関係者は、日本の中国への経済進出を脅威と考える人々であり、日英同盟反対運動は、天津、華南、および香港のイギリス商業会議所で支持されていた。イギリス帝国内を見れば、日本の第一次世界大戦参戦時に危惧の念を表明していたオーストラリアやニュージーランドは、日本に対する影響力維持のために同盟継続を良しとしていた。一方、カナダは、アメリカ太平洋艦隊の保護を必要とし、日英同盟に強硬に反対していたのである。
 ・・・<ちなみに、>ウェルズリー<外務省>極東部長にしても、決して日本や日英同盟を支持していたわけではないが、「自治領やアメリカ合衆国が採用している(日本人–筆者注)排除政策」を考えに入れ、日本の経済拡張の必要に同情的な意見も記していた。また、イギリス海軍省は、すでに太平洋やインド洋で戦争を遂行するのは困難と考えるようになっており、日本との友好関係維持に意味を見出していた。」(25~29頁)
→省略せずに、25頁から29頁までを全文引用すれば、更にはっきりするのですが、後藤の記述は極めて分かりにくいと言わざるをえません。
 例えば、冒頭の、「イギリス外務省では、日本との結びつきがイギリスに何らの利益ももたらさないという考えが主流<になってい>たようである。」のくだりですが、それまで、第一次世界大戦中に日英関係が冷却化してきたという話を彼はしていたところ、それがゆえに、イギリス外務省が日英同盟消滅(廃棄)を図った、と単純に考えてよいのかどうか、彼は何の説明もしていません。
 引用した部分に出てきたように、イギリス帝国の白人海外領にも日英同盟維持論があり、中央政府部内でも首相や海軍は日英同盟維持派であった・・ただし、リー(Lee)海軍大臣は廃棄派だった(コラム#4532)が、このことにも後藤は触れていない・・上に、当のイギリス外務省内においても、実に、大臣が日英同盟維持派であったほか、担当部長も中立的姿勢であったわけですから、一体外務省内のいかなる勢力が、いかなる主張を唱え、いかなる方法でもって、日英同盟廃棄を唱えた結果、(法律顧問の主張・・この勢力が手を回した?・・ともあいまって、)外務省内で日英同盟廃棄論が主流になったのか、を後藤は説明しなければならなかったというのに・・。
 こんな調子では、到底オックスフォードで博士号はとれなかったでしょうから、彼は、英語で考えたり書いたりする場合にはより論理的な思考や記述ができるのであろう、と好意的に解釈したいのは山々なのですが、彼の文章、どこが典拠を要約したもので、どこが彼の推論や見解なのかが必ずしも判然としていない、という根本的な問題があるところを見ると、彼、博士号をとることで消耗してしまい、この本を書く頃にはまだ回復するに至っていなかった、ということなのかもしれませんね。
 こういうことを申し上げたのは、この後、できるだけ彼の推論や見解は無視して、もっぱら彼が典拠を要約したと思われる箇所を紹介することに努めることにするけれど、この仕訳を私が間違うことがありうる、と予め注意喚起、というかお詫び、をしておきたかったからです。
 なお、後藤は、日英関係悪化について、英国側の責任を重視する見解であることが窺えたと思いますが、このことも頭に入れておいてください。(太田)
(続く)