太田述正コラム#4958(2011.8.28)
<戦間期日英関係の軌跡(その4)>(2011.11.18公開)
 「相当数の日本人が上海に赴くようになったのは1871年の日清修好条規以降である。しかし、1894~5年の日清戦争以前には外国租界の日本人は数百人にすぎず、そのうち約15人が三井物産、7~8人が総領事館で働き、残りの男性の大多数は陶器、雑貨や小間物を取り扱う小規模な商人だった。また、当時、上海に居留した日本人女性の6~7割は売春婦であったという。このような状況であったから、日本人は上海外国租界の上層には属していなかった。・・・
→当時の上海地区居住日本人女性総数が記述されていないのは片手落ちです。それにしても、日本人の性的禁忌の希薄さを背景とするところの、東アジアにおける日本人女性のセックス産業における比較優位性は、からゆきさん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%93
として知られるところの、19世紀末(娼婦)を見ても、現在の21世紀初(ポルノ)(コラム#4503、4698)を見ても、全く変わっていませんね。からゆきさんだって、貧しかったから、と片づける発想は改めた方がよいと思います。(太田)
 日清戦争の結果日本は列強の一員となり、最恵国待遇を獲得した。その地位は、1900年の義和団事件、1904~5年の日露戦争を経て、さらに確固たるものになっていった。すなわち日本は、北京議定書によって他の条約国と同様に北京に軍を駐屯させる権利を得、ポーツマス条約によって、旅順、大連などの租借地と、長春–大連間の鉄道利権などをロシアから獲得した。・・・
→東京(地区)に軍を駐屯させる権利を米国に与え続けている戦後日本について思いを致してください。(太田)
 この時期には日中貿易も発展し初め、多くの日本人が事業の機会を求めて中国に渡った。・・・日本人にとっても上海は重要であった。たとえば日本の中国綿工業への投資の中心は上海であった。・・・
 1920年代には、中国の関税自主権回復を見越し、輸入関税率引き上げの影響を回避しようとして進出する日本の紡績資本も増加した。1925年の上海には約1万8900人の日本人がいた。この数は1931年までにはさらに増加して約2万人に達した。・・・
 多くの日本人は共同租界<(注8)>の北部、バンド<(注9)>から蘇州河を渡った虹口地区に集中して住んでいた。また租界外に延長された道路に沿う地域に住む者もいた<(注10)>。・・・
 (注8)上海共同租界(日本語)=上海公共租界(漢語)=Shanghai International Settlement(英語)。1842年の南京条約に基づきまず英国租界が設置され、1848年に米国租界が、1849年にフランス租界が設置されたが、1854年に英国租界と米国租界が合併して共同租界が設置された。1842~1943年。1943年2月に英国から蒋介石政権に形式上、そして7月に日本から汪兆銘政権政権に実態上、返還され、名実ともに消滅した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Shanghai_International_Settlement
 (注9)バンド(Bund)の写真。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Shanghai_1928_Bund_Cenotaph.jpeg
 (注10)これらの位置関係については、下掲の地図参照。(法租界については下出。)
http://www.geocities.jp/keropero2000/china/shanghai04.html
 ちなみに、1920年代後半にイギリス人は日本人に次いで多く、外国租界に約4600人、それ以外に約8450人いた。租界には、この他に英領インド出身者も約1760人いた。第三はロシア人で、租界に約3100人、それ以外に約7370人いた。第四はアメリカ人で、上海全体で約3150人いた。・・・
 日本人は、人数の多さゆえに、1916年にはドイツ人に代わって共同租界参事会に参事を一人出せるようになり、また、工部局<(コラム#4711)(注11)>警察内に日本隊が設置された。・・・
 (注11)上海共同租界の市議会/役所と考えればよい。Board of works(地方自治体)が工部局(漢語)と訳されたもの。英国租界と米国租界が合併された1854年に発足した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%85%B1%E5%90%8C%E7%A7%9F%E7%95%8C
 共同租界の選挙制度は卓越した土地所有あるいは事業の権益を持つ外国人の手に自治権を保持するために採用されたもので、19世紀半ばのまま維持され、普通選挙とは全く異なっていた。その結果、上海居留日本人の多くは選挙権を持たなかった。1925年になっても参事会には一人の中国人も<いなかった。>・・・1927年に日本人参事は2名に増員されるが、その段階で全9名のうち6名をイギリス人が占め、残り1名はアメリカ人だった。」(45~47頁)
→興味深い箇所ですが、上海にはフランス租界(注12)もあり、それに一切言及せず、従ってまた、上海地区居住外国人の中に全くフランス人を登場させなかった点、これと関連し、「(外国)租界」が(フランス租界を含まず)共同租界だけを意味すると一般の読者に誤解させかねない点、これに加えて、日本人については、「(外国)租界」内と外の居住者数を明示しなかった点は、史料的限界もあったのかもしれませんが、後藤の記述ぶりには、不親切極まるものがあります。
 (注12)上海フランス租界(日本語)=上海法租界(漢語)=La concession francaise de Changhai(フランス語)。1849~1946年。1946年にフランスから蒋介石政権に返還されて正式に消滅したが、既に、1943年にヴィシー政権から汪兆銘政権政権に返還された時点で既に実態的には消滅していた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%A7%9F%E7%95%8C
 とまれ、1920年代後半においては、共同租界内外居住者数や上海地区での投資・貿易状況、更には治安貢献度からして、日本人参事の数は、英国人から大幅に振り替える形で、一番多くなっていてしかるべきでした。
 こういうところにも、東アジアにおける覇権の日本への漸進的委譲を怠った、英国の傲慢さ、怠慢さが現れています。(太田)
 「すでに1887年に大阪の棉問屋と紡績関係者によって設立されていた内外綿は、1911年に<上海に>工場を新設して在華紡に転身した。・・・在華紡での労働争議は1924年末より激しくなった。その原因としては、第一に、同年夏ごろから上海が共産主義と労働組合運動の拠点となっていたことが考えられる。共産党員は労働者とひそかに接触し、彼らを組織していた。第二に、当時中国人労働者の不満は高まっていた。第一次世界大戦の勃発によって西洋の経済勢力が一時的に撤退した結果、日本と同様に中国経済も利益を得た。しかし、これは上海での生活費、ことに食費と家賃の急激な上昇を伴っていた。1914年から1922年の間に米価は100パーセント上昇したが、平均賃金は80パーセントしか上がっておらず、労働者は賃上げを要求した。・・・第三に、大戦後西洋の勢力が中国に戻って来ると、反動的に経済情勢は厳しくなった。問題は過剰生産であった。紡績工場の外国人経営者は、利潤増大のためには合理化が必要と考え、また、共産主義の成長を危惧して管理を強めた。これは人員整理、労働者の解雇につながった。・・・高賃金を求める労働者との間に、合理化努力を強めた日本資本の在華紡で衝突が起きやすい状況が存在していた可能性は高い。・・・
 <日本の在華紡の中では>先発<であった>内外綿は、設備も管理方法も旧式であったという。
 ・・・同じ在華紡でも鐘紡などは労働争議に巻き込まれなかった。
 <ちなみに、>「労働者の取り扱いにおいて日系の紡績工場<(=在華紡)>はすべての外国人雇用主にとって手本」と見<る>・・・イギリス人の報告<が>ある。」(46、56~57頁)
→どうして上海の日本以外の外国資本の工場ではなく、日本の在華紡の、しかも内外綿の工場で労働争議が起こったのか、後藤の説明(57頁)は噴飯ものなのでここには掲げません。
 以上の記述をすべて正しいとすれば、赤露が、熟慮の上、標的として内外綿を選んだ、と考えて間違いないでしょう。
 つまり、支那資本の工場で争議を起こすのは論外として、日本以外の外国資本の工場で争議を起こせば、当該資本が、日本並みの労働条件に引き揚げることで対応する可能性があり、そうなると争議がすぐに終わってしまうので、標的は日本資本の工場でなければならなかったところ、内外綿以外の日本の在華紡の工場で争議を起こすよりも、「管理方式が旧式」、つまりは管理がへたくそな内外綿の工場で争議を起こす方が交渉が紛糾し、争議が長期化・深刻化する、と読んで赤露は内外綿を選んだ、と考えられるのです。
 なお、上海の工場が選ばれたのは、当時、赤露のフロントであった中国国民党が支那南部を拠点にしていたこと、上海が外国資本の支那投資の中心地であったこと、からでしょう。(太田)
(続く)