太田述正コラム#4966(2011.9.1)
<戦間期日英関係の軌跡(その8)>(2011.11.22公開)
 「<五・三0事件が起こった時、日本の>矢田<上海>総領事も北京の芳沢<謙吉(コラム#4378、4506、4510、4512、4614)>公使も、日本が率先して軍艦を上海に派遣することには反対であった。問題が在華紡での争議から拡大したため、二人とも中国人の怒りが日本に向けられることを恐れた。・・・居留民団は事態の悪化のため恐慌状態に陥っていたが、彼らの要請で矢田が日本からの海軍増派を依頼したのは、6月3日になってからであった。4日朝、次官会議で陸戦隊増派が決定され、8日、日本から巡洋艦龍田が到着した。
 加藤高明<(コラム#4528、4596、4598、4602、4604、4608、4610、4711)>首相は「親英派」として知られた人物であったが、この時期には、外交は基本的に幣原外相に任せていた。・・・
 イギリスの外務当局は・・・日本がイギリスの後ろに隠れ、上海になかなか軍艦を派遣しようとしなかったことに目を止めていた。さらに彼らは、日本が奉天軍閥の張作霖や北京政府に圧力をかけて騒擾を鎮圧させるべきだとも考えていた。・・・
 第一次世界大戦中に大きな人的損害を出したイギリスでは、1919年以降、国民の平和志向が非常に強く、軍事支出も削減されていた。・・・にもかかわらず、イギリス帝国は地球上の陸地の約24パーセントを占めるまでに拡大しており<(注19)>、不十分な軍事力が各地に分散しているのが実情であった。・・・イギリスの在華利権防衛には香港に歩兵2大隊を増派することが必要と見積もられたが、インドより近い所に予備兵力はなかった。・・・
 (注19)英国は、第一次世界大戦によって、中東で旧オスマントルコ領を獲得した(コラム#4955、4956)ほか、アフリカと太平洋で旧ドイツ領を獲得した。その結果、英国は、文字通り、ポール・ケネディ(コラム#54、96、208、312、858、1141、3794、4134)の言うImperial Overstretch(コラム#208)
http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_overstretch
状態に陥っていたわけだ。
 イギリス陸軍だけでなく・・・海軍軍令部長(First Sea Lord)のビーティ伯爵(1st Earl Beatty)は7月2日の三軍参謀総長小委員会(Chief of Staff Sub-Committee)の会合で利権防衛を日本に依頼することが望ましいかも知れないと発言した。・・・
 日本の経済関係者<も>・・・<イギリスに>協力的<だった。>・・・上海日本商業会議所は・・・6月・・・22日以降、中国側との交渉にアメリカ、フランス、イタリアの代表のみが参加を認められ、日英<が>排除されていた・・・<ことに>抗議を求める電報を幣原と芳沢に送った。また、日本経済界の指導的人物で、1920年に設立された日華実業協会の会長であった渋沢栄一<(コラム#2253)>も、・・・7月8日、・・・幣原にあて「列国の協調を必要とするは論なきも現に…実際利害に重要緊切の位置を占むる日英両国の協調は此際絶対に必要なりと認む」と書き送っていた。<(コラム#4532)>
 <要するに、>日本外務省・・・の姿勢は中途半端だった。・・・内外綿での労働争議と5月30日の租界警察による発砲事件を全く別の問題だとする<考えの下、>すでに6月初頭から矢田総領事は労働争議だけを分けて解決しようとしていた。・・・
→日本の外務省、すなわち外交官出身で外相の幣原は、英国から見て、反日本世論的姿勢であるところの反英的姿勢をとったということです。こんな時に外交をこんな幣原任せにしていた加藤首相の責任は重大です。(太田)
 ただし、6月中には交渉は進展しなかった。これは、ストライキ解決の恩恵を受けるはずの内外綿と大日本紡績連合会が矢田の考えに反対だったためである。・・・彼らは・・・上海での工場経営の経験によって、租界行政を牛耳る参事会とイギリスの行政力の保護なくしては利益の増大を実現できないと考え・・・ていたのである。・・・また、争議で死亡した労働者に弔慰金を払うことで中国人を懐柔するという考えや、2月以来のストライキの過程で強化され、共産主義団体と考えられていた工会との交渉も受け入れられるものではなかった。関西の紡績業者代表は6月19日に外務省を訪れ、イギリスを孤立させるような方策を採ることのないよう要請した。・・・
 工部局電気処は、従業員がゼネストに加わった<ためとして、>・・・7月7日正午までに、食料生産を除くすべての工場への電力供給<を>止<めた>。<これは、脅しと報復のためであったと考えられている。>それまで外国資本工場でのストによって利益を上げていた中国資本の工場では、送電の停止によって恐慌状態に陥った・・・。
 <こういう状況下、>江蘇省長は、・・・特派上海交渉員<を>任命した。そして<この交渉員>は、7月16日、矢田・・・を訪問した。・・・
→後藤は、江蘇省長についても特派上海交渉員についても、名前を記すだけでそれ以上の詮索をしていません。史料が全くないとは考えられません。少なくとも、当時の支那南部の省長が、どういうソースから、北京政府及び中国国民党政府のそれぞれいかなる関与の下で(、或いは関与なしで)任命されるのかくらいは調べられたはずです。
 私の読みは、これ以上上海の状況を泥沼化することは、支那側の労働者や資本家の(赤露系とそれ以外への)分裂をもたらす恐れがあると判断した赤露が、争議の収束を念頭に置きつつ、収束へのプロセスにおいて日英間に決定的くさびを打ち込もうと、直接、或いは間接的に、この省長に日本の総領事へのアプローチを指示した、というものですが・・。(太田)
 8月11日、イギリス資本の紡績工場には依然として交渉開始の望みさえもなかったが、矢田は中国側と合意に達した。・・・
 8月12日、矢田は<英上海総領事の>バートンに<その旨を>・・・告げた。・・・バートンは日本の単独解決を知って衝撃を受け、非常に興奮して、上海のイギリス資本紡績工場が窮境に陥ったのは日本人のせいなのに「イギリス人を振り捨てて操業を開始するとは卑劣千萬なりと罵」った。・・・翌日に租界参事会が開かれた時、日本側では日本人労働者が発電作業に従事することを提案し、日本人参事も送電の再開を支持した。しかし、イギリス人が大多数を占める参事会は在華紡の申請却下を決定した。・・・
 アメリカ、フランス、イタリアの総領事は日本の交渉成功が上海の情況を大いに改善するとしてこれを祝福していた。・・・イギリスはこの面でも孤立しかかっていた。・・・
 矢田の<働きかけもあってか、特派上海交渉員も軟化し、>9月1日、参事会は<彼>と合意することを決定し、・・・送電は9月8日に再開された。イギリス資本の紡績工場でのストは、9月26日に日本と同じ条件で解決された。」(66~74頁)
→日英に比べれば、支那における利権が少なく、従ってまた、支那の状況把握度においても劣る米仏伊は致し方ないとして、支那側・・英国には、支那側≒赤露側という認識があったであろう・・の列強分断工作にまんまとのせられたところの、日本の背信行為に対して英国が強い怒りを抱いたのは、当然のことです。
 そもそも、省長/特派上海交渉員が仲介するだけで、在華紡だろうが、上海の英国資本の工場群だろうが、争議が一斉にぴたりと収まる異常さ・・赤露の各工場への浸透ぶり・・に日本の外務省は畏怖の念を抱くべきでしたが、そんな形跡は皆無です。(太田)
(続く)