太田述正コラム#4968(2011.9.2)
<戦間期日英関係の軌跡(その10)>(2011.11.23公開)(「その9」(#4967)は公開済)
 「1926年前半・・・北京政府がますます弱体化する一方、国民革命軍による北伐が進展し、国民政府の実効支配地域が拡大していくという現実<を踏まえ、>・・・東アジアにおけるイギリスの軍事力が全く不十分で、中国ナショナリズムの攻撃がイギリスに集中する中、望むような国際協調をを達成できないことから、イギリスは独自の新政策を考える必要に迫られた。チェンバレン外相は・・・マクリー公使<を>11月末に北京からプラハへ転出<させ、>後任にはロカルノ条約締結に向けてチェンバレンを補佐して非常に厚い信頼を得たランプソン<(注25)>が任命された。
 (注25)Miles Wedderburn Lampson, 1st Baron Killearn。1880~1964年。イートン校卒。1906年に明治天皇へのガーター勲章授与使節団の一員として日本訪問。駐日2等書記官:1908~1910。1916年~:駐支1等書記官。1920年~:在シベリア高等弁務官。1926~33年:駐支公使。後に枢密院(Privy Council)入りし、男爵に叙せられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Miles_Lampson
 12月1日、ボールドウィン保守党内閣の承認を受け、北京ではランプソンの着任を待たずに、18日、・・・参事官が11カ国の大公使に・・・いわゆる12月メモランダム・・・<を>発表した・・・。<これは、>クリスマス・メッセージとも呼ばれることがある。
 <その内容だが、>・・・中国に関税自主権を認め、ワシントン会議で定められた付加税の即時無条件供与を提案した。さらに、強力な中央政府が設立されるまでは地方当局とも交渉する用意があり、ワシントン付加税の使用についても地方政府を含めた中国当局に任せると宣言した。それまでのイギリスが「北京の中央政府のもとにある中国」という建前を守ってきたことからすると大きな変化であった。イギリス・・・は関税収入の一部を提供することが十分な報償となって国民政府が反英ボイコットを繰り返さないことを期待した。・・・
 <ただし、>イギリスの権益の根幹にかかわる問題、たとえば中国の海関に対するイギリスによる支配の放棄、イギリス租界や租借地の返還、・・・治外法権の修正などは、全く言及されていなかった。
 12月24日、ティリー<(注26)(コラム#4504、4512)>駐日大使は、・・・12月メモランダムを日本政府に通告するために日本外務省を訪れた。・・・出淵勝次外務事務次官は、メモランダム「突如発表の一事に至りては甚だ了解し兼ぬる」、「明かに華府<(ワシントン(太田)>条約の精神に悖る」、「日本としては、英国は最早支那問題に付き日本とCo-operateする意思無きものと推定せざるを得ず、事態甚だ遺憾に堪えず」と強い調子で告げた。・・・多額の無担保債権、いわゆる西原借款を抱え、それを付加税によって整理することを欲していた日本にとって関税問題は重大であった。日本はワシントン付加税は増税分の一部を中国が債務支払いに使用するという条件のもとでのみ付与されるべきと考えていた。」(94~97頁)
 (注26)Sir John Anthony Cecil Tilley。1869~1952年。イートン、ケンブリッジ卒(修士)。英外交官。1920年に枢密院入り。駐ブラジル大使を経て駐日本大使(1926~31年)。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Tilley_(diplomat)
 「12月メモランダムの発表にもかかわらず、英中関係はすぐには変化しなかった。・・・上海<から>・・・揚子江をさかのぼったところにある漢口はすでに国民革命軍に占領され、<1926年>1月1日、・・・国民政府は広州から武漢に移された。3日、偶発的にイギリス海兵隊員が中国人と衝突すると、憤激した中国人群衆は漢口イギリス租界になだれ込んだ。彼らはそこで大衆集会を開き、租界を中国の管理下に取り戻すことを決定した。6日には同様の事件が九江でも起き、領事を含めすべてのイギリス人は九江から撤退した。・・・
 1月11日には<英>帝国防衛委員会(Committee of Imperial Defence)の会合が開かれ、・・・<その>結論は、日本が<租界>防衛の中心になる<べきであるとし、>・・・指揮官も日本人であるべきだとすら<した。>この時期、イギリス軍は全般に依然として有色人種を指揮官に抜擢しようとしていなかった。この点からも日本軍がいかに重要と考えられていたかが推測される。・・・
 1月12日、・・・芳沢駐華公使はランプソン<公使>の要請を受けて、すべての派遣軍は関係総領事の要求があればすぐ、かつ、同時に上海に到達すべきだというイギリスの提案を支持する旨を東京に打電した。・・・
 1月10日に東京では、参謀本部第二部長松井石根<(コラム#3536、4834、4837、4693)>がイギリス大使館武官に、日英同盟が破棄されていなければ揚子江流域や上海が危険にさらされることはなかっただろうと述べ<るとともに、>あらゆる可能性に備え、ことに上海において、日英両国の陸軍が密接に、共同して行動できるよう強く希望すると・・・述べた。
 <同じ頃、>上海で矢田<総領事が、>バートン<英上海総領事>に語ったのは、十分な保護が得られなければ野党の政友会を支援すると関西財界が脅しているので、政治的理由によって日本政府も強硬路線を採らざるを得ないだろうということであった。
→当時の日本の民主主義の面目躍如といったところです。(太田)
 しかし、幣原外相の考えは芳沢らと異なっていた。幣原の右腕であった外務省条約局長の佐分利貞男<(注27)>が漢口<(ママ(太田))>を訪れ、蒋介石や外交部長の陳友仁<(コラム#4504、4724)>をはじめとする国民党の有力者と会談していた。1月8日に到着した佐分利の報告によれば、国民党は、今日中国が「国際的劣等の地位に在り内的に困窮の状態に居るは其の原因全く英国に在りとして、所謂不倶戴天の敵」と考えている、というのであった。また国民党は、イギリスの誠意を大いに疑い、不平等関係是正の用意があるという12月メモランダムの宣言は単に「表面的妥協的態度」であり、口先だけのものと考えていた。対照的に中国の反中国感情は強くないと佐分利は報告した。この佐分利の報告によって幣原は、日本人保護のための軍隊派遣は状況を悪化させるのみであると考えていた。日本外務省はまた、国民党内には「過激派」と「穏健派」との対立の徴候があると観察し、蒋介石を含む「穏健派」との関係を深めようとしていた。・・・
 (注27)1879~1929年。東大法卒。外務省入省。「広田弘毅と帝大の同期であり、入省年次は一期先輩・・・清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。・・・1929年・・・8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐支那公使に就任。・・・一時帰国中の同年11月29日、箱根宮ノ下の富士屋ホテルにおいて変死体で発見され、自殺とされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%88%86%E5%88%A9%E8%B2%9E%E7%94%B7
→その年の3月20日に中山号事件(Zhongshan Warship Incident)(コラム#4950)
http://en.wikipedia.org/wiki/Zhongshan_Warship_Incident
を起こし、(北伐に反対していた)中国国民党内の共産党員や汪兆銘ら国民党左派を強く牽制する姿勢を打ち出す直前の、この1月の時期において、蒋介石は、自分の心中を忖度されないためにも、赤露の推進していた政策に忠実に、日英分断を図った、ということでしょう。他方、陳友仁は、反日で知られていた人物(コラム#4724)であり、中国国民党内のばりばりの左派として、文字通り赤露の日英分断政策に則った話をしたのでしょう。この程度の読みができず、まんまと分断策に乗ぜられてしまった佐分利も、(幣原同様、)外交官として、失格である、と断ぜざるをえません。(太田)
 21日、幣原はティリーに、イギリスが要請する援助はできないと回答した。・・・
 日本の決定は非常に合理的で適切であった。・・・
 やむなくイギリスは単独で行動し、・・・1万3000人よりなる遠征軍を中国に派遣した。・・・
 1月27~28日には、香港に駐屯していたインド軍(Indian Army)歩兵1個大隊800名が上海に到着し<た。>・・・
 インド軍・・・は、インド人傭兵と少数のインド人将校で構成され、イギリス人将校の指揮下におかれた植民地軍であ<り、>・・・イギリスにとって都合が良かったのは、この派遣費用がインドの財政で賄われたことである。」(98、100~105)
→後藤は、「日本の決定は非常に合理的で適切であった」と記していますが、彼自身、当時の赤露の「恐ろしさ」が全く分かっていないのでしょう。(太田)
(続く)