太田述正コラム#5038(2011.10.7)
<歴代の駐日英国大使(その3)>(2011.12.28公開)
5 後藤春美<(コラム#4952)> 「サー・ジョン・ティリー 駐日大使 1926~31年」
 「サー・ジョン・ティリー(Sir John Tilley, 1869~1952)<(注6)>は、1926年・・・から1931年・・・にかけて、日本駐箚英国大使であった。・・・
 (注6)一応、英語と日本語のウィキペディアが存在する。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Tilley_(diplomat)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%BC
 ティリーは1869年1月21日に生まれた。イートン校からケンブリッジ大学・・・に学び、・・・外務省に奉職。・・・ブラジル<大使を経て、>・・・1926年<駐日大使となった。>・・・
 1921年から22年のワシントン会議の結果、日英同盟協約が廃棄されて以来、・・・エリオットの下で大使館付き陸軍武官を勤めたF・S・G・ピゴット(Francis Stewart Gilderoy Piggot, 1883-1966)によれば、・・・「英国の声望に翳りがみえ」、そして「その衰頽傾向」はとどまるところを知らなかった。」・・・「<もはや>・・・われわれが特別に配慮する必要がなかった往事とは基本的に同じではなかったのだ」。エリオットが英国の声望の頽勢をくい止めるために「根気よく努力した」ので、彼が離任したことは加藤高明・・・の・・・1926年<の>・・・死去とあいまって、日英関係に大きな打撃をあたえた、とピゴットは考えた。この言葉は、彼がティリーを大使として高く評価しなかったことを暗示しているようにみえる。後になってピゴットは、1931年・・・に<ティリー>大使が交替した時はうれしかったと・・・書いている。・・・
 ティリーは日本人のなかにも外交団のなかにも、ほとんど友人がいなかったようにみえる。・・・
 ティリーが自叙伝の中で不平をこぼしているのは、日本人の家に招待されることがなく、まれに招かれた時でさえ、その家の主人がほとんど英語を話せないために、時には退屈な時間をもてあましたということだ。
 本国の外務大臣との意志疎通もまた、十分とは言えなかった。・・・
 <これに対し、彼の前任者の>エリオットは外務大臣にたいして日本の情勢や日本特有の風俗的事象を説明するのは義務だと心得て、返事を期待することなく非公式書簡を書きつづけた。・・・
 幸運にもティリーには著名な日本学者サンソムを含めて、大勢の有能な大使館員がいた。彼はさまざまな仕事を部下に委ねることができた・・・
 ティリーが日本駐箚大使として貢献したことはあまり多くない。・・・彼はまた、エリオットやサンソムのような学者外交官が活躍した方面でも、なんら寄与するところがなかった。・・・彼が、1930年の秋に日本を去ったことは、離日後一年もたたぬうちに日本の中国東北部侵略[満州事変]が開始されただけに、彼にとっては幸運であった。ティリーのように凡庸な外交的才能しかない人物にとって、そのように悪化の一途を辿る深刻な事態への対処は恐らく手にあまるものだっただろう。」(236~239、245~246、249頁)
→後藤にかかるとティリーはけちょんけちょんですね。
 「英国の衰退がますます著しくなるにつれて、そして一方、日本が主要な地域大国としてますますその頭角を際立たせるにつれて、両同盟国の関心は異なっていった。グリーンは<英国>政府の<政策の(?)(太田)>忠実かつ有能な推進者であったが、指揮する立場の人物ではなかった。」(213頁)とピーター・ローが評したグリーン駐日大使(1912~19年)の後、サー・チャールズ・エリオット(Charles Eliot, 1862-1931)駐日大使(1919~25年)(219頁)を挟んで再び凡庸なティリー駐日大使(1926~31年)を派遣するとは、英国政府は、一体何を考えていたのか、と言いたくなります。(太田)
6 イアン・ニッシュ 「サー・フランシス・リンドリー 駐日大使 1931~34年」
 「サー・フランシス・リンドリー(Sir Francis Oswald Lindley, 1872-1950)<(注7)>の日本との触れ合い・・・の最初は1905年から1908年まで<の>二等書記官として<の>駐在<であり、>・・・二度目の接触は1931年から1934年まで、東京に大使として駐在した時代であり、本国での6ヵ月の賜暇を考慮すれば、比較的短い期間であった。・・・
 (注7)ウィンチェスター、オックスフォード大卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Oswald_Lindley
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC
 <駐日大使就任は、>リスボン駐在大使を<経てのものだった。>・・・
 あきらかに彼は外交官として少なからぬ経験を積み、主としてヨーロッパで骨の折れる地位に就いてきた。特に注目に値するのは、ボルシェヴィキが政権を獲得したときに<ラトヴィアの>リガにいたことで、・・・<一時、>[駐露]大使館を任せられたのである。この経験によって彼はソヴィエト・ロシア(のちにそうなった)にたいし、強い疑惑を抱いた。彼はソヴィエト・ロシアを領土拡張主義者であり、英国の主要な世界的問題であると判断した。・・・
 <また、>彼は米国に勤務した経験がなかったが、東洋における米国の野心については懐疑的であった。・・・彼はその当時東京に駐在していた米国大使・・・とその次ぎのジョゼフ・グルー(Joseph C. Grew)<(コラム#2017、2412、2498、3789、4108、4159、4163、4394、4504)>の二人と良好な関係を保っていたが、ワシントンの政府の意向は、東アジアにおいては何とか事をうまく収めようとするつもりなど全然ないふりをし、英国が「厄介な役目を背負い込む」のを当てにしているのだと、確信していたようである。・・・
 <更にまた、>彼は日本に到着するずっと前から<国際>連盟が嫌いであり、連盟の評議会や委員会が、発展しつつあった満州事変を取り扱うやり方を見て、さらにいっそうそれにたいする不信感をつのらせた。・・・
 彼はこの最も苦悩した時代について、<当時、>次のような私的文書を残している。
 ・・・私の唯一の目的は、連盟がこの馬鹿げた満州の騒ぎを、世界戦争へと導く邪魔をすることである。
 リンドリーは、日本の新聞の敵意と、国際法上の制裁に抵抗する決意をしていた軍部の政治力に、特に驚きを持った。彼らの中でも極端に近い者は、すでに連盟を脱退することを口に出していた。日本人は、政府においてもマスコミにおいても、英国の態度に敵意を抱いていた。」(255~259頁)
→リンドリーの、赤露脅威論、米国蔑視論・警戒論、国際連盟不信論、といったところは、当時の日本人の世界観とほぼ同じですね。それはまた、トマス・バティ(コラム#4539、4561、4673、4675)の世界観ともほぼ同じである、と言ってよいでしょう。
 それにしても、リンドリーが、満州事変の時の英国の対応(その国際連盟内での対応を含む)が、英国と日本を巻き込む世界戦争へと導きかねない愚かなものである、と見ていたというのは凄いですね。
 彼は、この自分の危惧が的中したことを、1935年から(1949年まで)勤めたロンドン日本協会の理事長として(日本語ウィキペディア上掲)痛感させられる羽目になるのです。
(続く)