太田述正コラム#5148(2011.12.1)
<映画評論31:ニュルンベルグ軍事裁判(その2)>(2012.3.18公開)
 「アテインダー法は、イギリスでは18世紀一杯まで使われ、英国の植民地にも適用された。
 米独立革命の動機の一つはアテインダーの不正義に対する怒りだった。
 もっとも、北米人達自身も、革命期間中、英王党派(British loyalists=保守党(Tories))の財産を没収するためにアテインダー法を用いた。
 北米人達のアテインダーに対する不満が<米>憲法における<下掲の>禁止条項となった。・・・
 <なお、英国では、>1789年を最後に、爾後、アテインダー法は制定されていない。」http://en.wikipedia.org/wiki/Act_of_Attainder 前掲
第9条[連邦立法権の制限](Section. 9.)
 ・・・
[第3項]私権剥奪法または事後法を制定してはならない。
(Clause 3: No Bill of Attainder or ex post facto Law shall be passed. )
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-constitution.html
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/e/jusa-majordocs-constitution.html
 以上から、米国政府がチャーチルの案を葬り去ったのは当然であったわけです。
 (2)米国のナチス戦犯処罰案
 「米財務長官のヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau, Jr.)は、ドイツの完全な非ナチ化という計画を示唆した。
 これは、モーゲンソー・プランとして知られることとなる。
 ローズベルトは、最初はこの計画を支持し、チャーチルに、それをやや穏やかにした形で飲ませることに成功した。
 後に、世論に詳細がリークされ、幅広い抗議の声を巻き起こした。
 世論の不賛意を自覚したローズベルトは、この計画を放棄したが、本件に関する代替的立場を示さなかった。
 <こうして>モーゲンソー計画が葬られたため、ナチ指導部を取り扱う代替的方法を考える必要が生じた。
 そこで、「欧州の戦争犯罪人の裁判」が米陸軍長官のヘンリー・L・スティムソン(Henry L. Stimson)と陸軍省によって起案された。
 1945年4月にローズベルトが亡くなるが、新大統領のハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)は、司法過程に強い賛意を与えた。
 英米ソ仏の間の一連の交渉の後、この裁判の詳細が決まった。」(F)
 こういう次第で、後述するところの事後法を含む処罰規定によるニュルンベルグ裁判が始まったわけですが、米憲法において、アテインダー法の禁止と同じ条項に対で掲げられている事後法の禁止の方は、米国は、何等躊躇なく踏みにじったことになります。
 (3)ソ連のナチス戦犯処罰案
 本件に関しては、主役は英米、就中米国であり、ソ連は脇役に過ぎませんでしたが、エピソード的に触れておきましょう。
 「1943年末、テヘラン会議(Tehran Conference)<(注2)>での米英ソの夕食会の席上、ソ連の指導者のヨセフ・スターリンは、50,000~100,000人のドイツ参謀将校の処刑を提案した。
 (注2)1943年11月28日~12月1日、テヘランで開かれた、米英ソ三大国の、スターリンが出席した最初の会議。(英国はチャーチル、米国はローズベルトが出席。)(その直前に、米英中のカイロ会議(1943年11月22~26日)が開かれている。英米の出席者は同じ。)その後、ヤルタ会議(1945年2月4日~11日。メンバー同じ)、ポツダム会議(1945年7月17日~8月2日。英国はチャーチルが出席したが途中からアトリーに交替。米国はトルーマンが出席)と続いた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tehran_Conference
http://en.wikipedia.org/wiki/Cairo_Conference
http://en.wikipedia.org/wiki/Yalta_Conference
http://en.wikipedia.org/wiki/Potsdam_Conference
 米大統領のフランクリン・D・ローズベルトは、49,000人でもいいかもしれないね、と冗談を言った。
 チャーチルは、「自分達の祖国のために戦った兵士達を冷血にも処刑する」という考えに対し、そんなことに関わるくらいなら、自分は「中庭に出て」自分自身を「撃つ」よと弾劾した。
 しかし、彼は、戦争犯罪人はその罪を償わねばならず、・・・彼らはその罪が犯された場所で裁判にかけなければならない、と述べた。
 <このように、>チャーチルは、「政治的目的の」処刑には猛烈に反対だった。
 1945年2月4日にリヴァディア宮殿(Livadia Palace)で行われたヤルタ会議(Yalta Conference)の議事録によれば、ローズベルト大統領は、ドイツがクリミアで行った破壊の規模に大きな衝撃を受けたとし、前年に比べてドイツ人達に関してより血に飢えた気持ちになったので、スターリン元帥がもう一度ドイツ軍の50,000人の士官達の処刑に乾杯の音頭をとることを希望する、と述べた。」(F)
(続く)