太田述正コラム#5158(2011.12.6)
<映画評論32:初恋のきた道(その2)>(2012.3.23公開)
 糸井らは、この映画の一体どこに感動したのでしょうか。
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吉本:
 私はね、最初は試写室で、もう目の前が見えなくなっちゃったくらいに涙が出たのは、この女の子が先生をずーっと待ってるでしょう、しつこいくらいに。で、走って走って、待ってるでしょ。そこが長いんですよね。・・・何分間か同じシーンがずーっと。
そうするとね、最初はべつに何とも思わなかったのになんか涙が出てきちゃって、それから止まらなくなっていって、ちょっと何か言うだけでもうぶわーぁ、とか。・・・
糸井:
1 最後の、<棺桶にかける布の>旗<(機)>も<チャン・ツィイー演じる主人公が>自分で織ってるじゃなですか。「買えばいいじゃん」て言うじゃない、息子が。そうするとお母さんが、それはだめだと、徹夜して織ってますね。あれいいよねえ。・・・
2 <涙が出たのは、>一度目の<鑑賞の>ときは、やっぱり最後ですね。最後で、葬列をつくるのに、みんな集まってくれたよっていうところが嬉しかったですね。
 お父さんの物語として、おカネがいくらかかるみたいな話をしてたじゃないですか。
 そこんところで、みんながお父さんに対して集まってくれたという話して、堰が切れたように、今までの分もだーっと泣けてきましたね。・・・
 お母さんとか、あるいはお父さんの教育に対する熱情・・・<が人々に届いている、>そういうところでも僕は何度も泣いた。
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 このように、吉本は、恋愛映画、純愛の物語としてこの映画を見ています。
 糸井も、基本的に吉本と同じですが、補足的に、教育の重要性についても訴えた映画である、と見ているわけです。
 続けてこの二人の以下のやりとりにざっと目を通してください。
 
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糸井:<チャン・イーモウは、チャン・ツィイーという>子に目がいってしまうという自分を<この映画で>表現してるんですよ。さらに、すごくすれっからしに言えば。
 で、あの雪国とか、山の緑と白と茶と、その景色のなかに、このピンクを置いちゃったら、もう欲情せざるを得ないじゃないですか。で、衣装の設定とか、色彩の設定から、俺はこの子が好きだぁって、もうたまらなく表現されてるわけですよ。・・・
 <その上で、>モノクロ<で撮影されている場面の>ほうにリアリズムを置いたわけでしょう。「タバコ代がかかるんだよ」とかさ、「人足代は一人いくらだからいくら。それにタバコ代があるよなあ」っていう、あのおカネのリアリズムを、逆にモノクロにして、ファンタジーのほうをカラーにした・・・
 ピンクとか赤ってさ、基本的には霊長類の生殖器の色ですからね。・・・
 この邦題(『初恋のきた道』)について、何か論争があったらしいですね。
こんな甘ったるいタイトルつけて、ふざけてるっていう説もあって。原題は『我的父親母親』だし。
吉本:いや、たしかに観ないうちは、「何、このタイトル?」と思った。でもね、観たら、いいと思った。
糸井:俺も同じ意見。いいじゃん!
吉本:これよ! とか思いましたよ。
糸井:「初恋のきた道を辿って死体が帰る」っていう、散文にするとそうなるんですよ。
一行目は『初恋のきた道』で、助詞で「を」つけて、「お父さんの亡骸が雪のなかを帰る」っていう詩にすればいいんで、上の句なんですよ、これは。
吉本:そうですね。たしかに。
糸井:たしか英語のタイトルもなかなかしらばっくれててうまいんですよね。
吉本:あ、そうだった?
糸井:DVDに書いてあるはず。老眼の僕には探しにくいですけど、あった。「The Road Home」。
吉本:「家路」ですよね。
糸井:やっぱり息子にとってすごく大事な道だからね。で、『初恋のきた道』というと、チャン・イーモウのプライベートな気持ちがバレちゃうんでだめなんですよ、きっと。で、「我的父親母親」にして、俺の恋愛映画じゃないからって。
吉本:そうですね。私も『初恋のきた道』として初恋気分で観て原題が出たときに、なんかあれっ、ちょっと違うかなって、一瞬思ったんですよね。
糸井:そうそう、そうなんですよ。僕はもうバレてるんだから、もうピンク映画だから、汚れなきピンク映画。・・・
 あと取り立てて文化大革命の大げさな、いやなところを匂わせなかったのも救いですね。・・・
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 糸井は、この映画について、それが基本的に恋愛映画であるという前提に立ち、チャン・イーモウが、チャン・ツィイーという時分の花的美少女に欲情しつつ、彼女が最大限に映える作品に仕立て上げたのである、と何とも下卑た指摘をしているわけです。
 しかし、映画のテーマを論じるのなら、タイトルについて、もっときちんと考察しなければいけません。
 日本語のタイトルこそ『初恋のきた道』ですが、この映画の原題は『我的父親母親』、つまり、『僕の父と母』です。
 更に、映画のもととなった小説のタイトルは、漢語表記は分かりませんが、英語ウィキペディア(B)によれば、『Remembrance』すなわち、『追憶』です。(日本語ウィキペディア(A)は、この小説のタイトルが映画の日本語タイトルと同名であるとしていますが、誤りでしょう。)
 結局、日本語のタイトルではなく、英語のタイトルである『The Road Home』、すなわち『家路』の方が、原題の『僕の父と母』や小説のタイトルの『追憶』に、より即している、と言わなければなりません。
 このように、タイトルについて考察するだけでも、チャン・イーモウが、カラーで「40年前」の追憶場面を、そして、モノクロで「現在」の場面を撮影した理由は、彼が、「現在」に比べてずっと良かったところの(、この映画の中心人物である父と母が一番輝いていた)時代であった「40年前」を追憶し、追慕しているからだ、という理解に到達するはずなのです。
 いや、何もこんな風に「考察」するまでもないのです。
 私自身は、この映画がモノクロで始まったので何だこれはと怪訝な思いを抱いていたところ、追憶場面でカラーに切り替わった瞬間に、このようなチャン・イーモウのねらいを予見できました。
 (予見できたのは、私が、同じチャン・イーモウによる『王妃の紋章』(2006年)(コラム#5110、5112、5114)を既に見ていて、彼の映画手法がある程度分かっていたことがあずかっていることでしょう。
 しかし、糸井だって、同じチャン・イーモウによる『あの子を探して』(1997年)を鑑賞したことがある、と対談の中で言っています。
 この映画は私はまだ見ていませんが、その簡単な紹介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%97%E3%81%A6
を読んだだけでも、体制批判がそのテーマであることが容易に想像できます。
 一体、糸井は、目を啓いて映画を見ているのでしょうか。)
 ところが、あろうことか、『初恋のきた道』に関し、糸井は、モノクロをリアリズム、カラーをファンタジーと結び付けてしまっています。
 そうじゃないのです。
 どちらの時代もリアリズムでもって描写して比較対照させつつ、40年を経て、時代はカラーからモノクロになるくらい悪くなってしまった、とチャン・イーモウは訴えているのです。
(続く)