太田述正コラム#5170(2011.12.12)
<田中上奏文(その2)>(2012.3.29公開)
 「<満州問題を審議した1932年>11月21日の<国際>連盟でまず演説したのは松岡<洋右>であり、松岡はリットン報告書の見解を批判した。・・・<中国国民党政府の>顧維鈞<(注3)>はこれに反論し、日本軍の行動は自衛権の行使として正当化できないと訴えた。さらに顧維鈞は、「東三省支配は世界征服の第一歩にすぎない」と論じて、「田中上奏文」の一節を・・・引用した。・・・
 (注3)Wellington Koo。1888~1985年。コロンビア大学学士・修士・博士。「国民党政府の外交官出身の政治家。字は少川。・・・外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%B6%AD%E9%88%9E
 そこで松岡は、・・・11月23日の連盟理事会で顧維鈞に反駁した。
松岡「そのような文書が、天皇に上奏されたことはない。1930年4月、当時の王正廷<(注4)>南京国民政府外交部長は、偽造文書の流通によって生じる悪影響を防ぐために、しかるべき措置を講じると駐華日本公使に約束しているではないか」
 (注4)C. T. Wang。1882~1961年。ミシガン大学を経てイェール大学で法律を学ぶ。「中華民国の政治家・外交官・法学者。北京政府の外交総長、国民政府の外交部長をつとめるなど、民国期を代表する外交の重鎮である。なお、北京政府では、短期間ながら臨時国務総理となった。国際連盟の常設仲裁裁判所で仲裁人もつとめたことがある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%AD%A3%E5%BB%B7
顧維鈞「偽書であるかはともかく、『田中上奏文』に記された政策は、満蒙の支配や華北と東アジアにおける覇権の追求を説くものであり、数十年来に日本が進めてきた現実の政策そのものである」
松岡「中国代表は、『田中上奏文』の信憑性を確信されているようである。中国代表が文書の存在を次の会議で立証されることに期待したい。」
 「田中上奏文」をめぐる松岡と顧維鈞の論争は、11月24日の連盟理事会でも続けられた。まず発言したのは顧維鈞であった。
顧維鈞「この問題についての最善の証明は、今日の満州における全局である。仮にこれが偽書であるとしても、日本人によって偽造されたものである。その点については松岡氏も、近著『動き満蒙』のなかで同意されている。」
松岡「中国代表は、証拠を提出せずに拙著に論及された。拙著は日本語で書かれたものだが、おおよそ正確に引用されたようである。したがって、『田中上奏文』を偽書と見なす拙著の記述に、中国代表は賛意を表したといわねばならない。」」(226~227)
 「「田中上奏文」の真偽論争に限っていうなら、連盟の討議は、松岡よりも顧維鈞に旗色が悪い。・・・<しかし、>松岡が「田中メモリアル」への批判に固執したため、顧維鈞には反論の機会が与えられ、かえって「田中メモリアル」は国際世論に印象づけられていた。日本の大陸進出が深まるにつれて、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』には、「田中メモリアル」を本物と解する記事が増えていった。・・・
→日本は、「田中メモリアル」反批判を組織的に遂行しなければならなかったのに、全くそれをやった形跡がありません。(太田)
 このように「田中上奏文」は、アメリカでも定着していった。その背景には、国民党による宣伝があったものと推定される。・・・
 「田中上奏文」の流布については、コミンテルンの果たした役割も大きかった。・・・コミンテルンの雑誌『コミュニスト・インターナショナル』は、1931年12月に「田中メモランダム」の全文を紹介し、「ソ連を擁護する全世界の労働者はこの文書を知るべきである」と論じた。『コミュニスト・インターナショナル』は、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、中国語で刊行されていた。この記事を和訳したのが、日本共産党であった。・・・
 コミンテルン駐在の中国共産党代表団は、1935年8月1日に「抗日救国のため全国同胞に告げる書」を発した。いわゆる八一宣言である。・・・
 八一宣言は、「田中メモランダムによって予定された、完全にわが国を滅亡しようという悪辣な計画は、まさに着々と実行されつつある」と危機感をあおっていた。」(231、236~237)
→中国国民党が赤露のフロントであったことは状況的に疑う余地はない、という感じですね。(太田)
 「日本で対外宣伝を担当したのは、外務省情報部であった。外務省の本省に情報部が正式に設置されたのは、1921年のことである。・・・1930年代に外務省で情報部長を長く務めたのが、中国経験に富む天羽英二<(コラム#4695、4762)>であった。・・・
 1936年に天羽情報部長は、・・・宣伝省は、ドイツやイタリアのような「独裁専制ノ国」にこそ存在しているものの、・・・英米を宣伝対象とすべき「立憲国」日本にとって、「独裁制ノ匂」のある宣伝省を特設することは、かえって逆効果であると・・・論じた。・・・
 <しかも、>宣伝省が新設されるなら、<外務省が>情報宣伝機関を奪われることになるため、外務省としては賛成できないというのである。・・・もっとも、外務省が十分に宣伝を行えているわけでもなく、「現在ノ外務省情報部カ小規模ニ過クルハ外交当局トシテモ充分之ヲ認メ居り」と天羽はいう。」(238~239)
→戦間期の日本は、対外情報面でも、ついに官庁間セクショナリズムを乗り越えることができなかった、ということです。(太田)
(続く)