太田述正コラム#5178(2011.12.16)
<田中上奏文(その6)>(2012.4.2公開)
 「第二に、中国で「田中上奏文」が浸透した遠因として、田中内閣に対するイメージを指摘すべきであろう。概して中国では、満州事変を引き起こした石原莞爾よりも、田中義一のほうが知られている。
 満州事変から対中侵略が始まったというのは日本の見方にすぎないのであり、中国からすれば、遅くとも田中内閣からということになる。満州事変は出先の暴発であるが、田中内閣は自ら三度の山東出兵を行った。しかも、国民革命軍と衝突し、済南事件を引き起こしている。田中義一には、「田中上奏文」のイメージが当てはまってしまう。」(25)
→興味深い指摘ですが、遺憾ながら、典拠が付いていません!(太田)
 「<「田中上奏文」では、>すでに他界していた山形有朋が、不可解にも9カ国条約<(1922年)>の成立を大正天皇と協議してもいる。・・・
 <また、>「田中上奏文」には吉林–敦化(とんか)線が竣工したとある。だが、吉敦線の完工は1928年10月であり、東方会議の一年数カ月も後のことである。「田中上奏文」が書かれたのは、東方会議から一年以上してからなのだろう。・・・
 <更に、>「田中上奏文」は、東方会議の内容とかけ離れていた。「田中上奏文」の作成者は、日本の新聞すら十分に閲覧できなかったのであろう。つまり、「田中上奏文」の作成者は日本通でないばかりか、日本から地理的に遠かったのではなかろうか。」(36、44~46)
→偽書というものはこんなものなのでしょうが、できが悪いですねえ。(太田)
 「1929年の晩秋には、中国東北で「田中上奏文」の流布が顕著となった。当初、配布を主導したのは、教育や報道の関係者によって作られた新東北学会という民間団体だった。・・・
 <他方、>太平洋問題調査会とは、相互理解を目的とする民間の国際学術団体であり、アメリカや日本、中国、カナダ、オーストラリなどから有識者が参加していた。・・・
 上海YMCA書記長・・・が、太平洋問題調査会の京都会議で、・・・「田中上奏文」を朗読予定だというのである。・・・
 <彼>は36頁から成る「田中上奏文」の英文小冊子を用意して<いた。>・・・
 <外務省の働きかけもあり、結局、>「田中上奏文」<については、こ>の英訳が太平洋問題調査会京都会議に提出されなかったものの諸外国には配られた・・・。・・・
 当時、アメリカ国務省で対日関係を担当していた・・・バランタイン<(注9)>が1929年秋ごろ、上司のホーンベック国務省極東部長に呼び出されている。すでに「田中メモリアル」がアメリカに流入していたのである。・・・ホーンベックの専門は中国であり、日本語を解さない。
 (注9)Joseph William Ballantine。1888年~1973年。「1909年、国務省外交部に入省。1911年から1912年まで神戸副領事。1912年に横浜副総領事。1912年から1914年まで台北副領事。1914年に横浜副総領事。1921年から1923年まで大連領事。1923年から1929年まで東京領事。1930年にロンドン海軍軍縮会議アメリカ代表団で事務局長。1930年から1932年まで広東総領事。1934年から1937年まで奉天総領事。1941年にオタワ総領事。1941年から1943年まで国務省極東部担当職員。1943年から1944年まで極東部長。1944年から1945年まで極東局長。1945年から1947年まで国務長官特別補佐官。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
 ・・・ホーンベックは、「田中メモリアル」をバランタインに示し、「どう思うかい」と意見を求めた。「日本語の原本は存在するのですか」とバランタインが聞き返すと、ホーンベックは、「いや、英語版があるだけだ」と答えた。するとバランタインは、「これは偽造文書です」と断じた。「なぜそう言えるのかい」と問うホーンベックに、バランタインは、「日本人なら、こうは述べません。第一、首相が天皇に宛てた上奏文であれば、そのような形式にはならないのです」と説いた。
 すなわち、「田中メモリアル」の原文はなく、英訳だけが存在すると伝えたホーンベックに対し、英文を一瞥したバランタインは、形式的な不備などから即座に偽物と喝破したのである。さらにバランタインは、ホーンベックに宛てた文書でも「田中メモリアル」を詳細に検討し、「明らかな捏造」と断定した。
 バランタインと並ぶ日本通のドゥーマン<(注10)>は、駐日米国大使館の一等書記官であった。オーラル・ヒストリーでドゥーマンは、「田中メモリアル」についてこう述べる。
 (注10)Eugene Hoffman Dooman。1890~1969年。北西イラン出身のアッシリア人父母が宣教師としてやってきていた大阪で生誕。第一言語は日本語。日米開戦時の駐日米大使館参事官。
http://en.wikipedia.org/wiki/Eugene_Dooman
 その文書が本物だと確信している人たちは、一度も原文を読んでいなかった。私は読んだ。それが最初に広まり始めたとき、私は原文をもちろん日本語で読んだ。それは日本的ではなく、明らかに中国的な語句や表現に満ちていた。(中略)この文書は、間違いなく中国人によって書かれたものだった。
 ドゥーマンも、「田中上奏文」を偽造と見なしていたのである。まず英語版を読んだバランタインと異なり、ドゥーマンが最初に手にしたのは日本語版である。流布され始めた直後だったという回顧談から推測すると、ドゥーマンが読んだのは、1930年6月に日貨倶楽部が刊行した小冊子『支那人の観た日本の満蒙政策』と思われる。
 ドゥーマンによると、「田中上奏文」は日本的というよりも中国的な表現に満ちており、「間違いなく中国人によって書かれたもの」だという。さらにドゥーマンは、英語版の翻訳者についても推測し、アメリカ人が使わないようなイギリス英語だと判断した。
 つまりアメリカ国務省は、「田中上奏文」の英語版だけでなく日本語版も入手しており、当初から偽造と知っていたことになる。」(49、51、56~58)
→ドゥーマンに関する上記英語ウィキペディアからは、彼が支那勤務したことがあるようには思えませんが、独学で漢語を身に着けていた、ということなのでしょうか。(太田)
(続く)