太田述正コラム#0095(2003.1.19)
<原理主義化するキリスト教(その2)>

 前回(コラム#93)ご紹介したフィリップ・ジェンキンスの指摘を要約すると、「宗教原理主義」とは「宗教によって社会、そして時として政治を律しようとする思想」であり、キリスト教にあっては、キリスト教発生時のような終末論的不安感の下で戦乱・貧困・疾病等に苦しむ信徒達が、その「救い」を、国家に代わり、信徒の絶対的な帰依・服従の対象たるキリスト教指導者達が、奇跡等によってもたらしてくれることを期待する考え方であるところ、世界最大の宗教であるキリスト教は、世界的に進行している都市化現象の下、ますます他の宗教を引き離して信徒が増えてきており、しかもそのキリスト教は全般的に原理主義化しつつある、ということです。

 ところで、(キリスト教だけが名実ともに世界宗教となり、かつ世界最大の宗教となったのはなぜかという難問はさておき、)なぜキリスト教の信徒が、現在もなお他の宗教を上回るペースで増え続けているかということについては、ジェンキンスは識字率が世界的に上がってきたことがあずかっている、と言っています。すなわち、最も人口及び人口増加率の大きい第三世界において、アラビア語で書かれたコーランの使用しか認めないイスラム教よりも、あらゆる言語への新旧約聖書の翻訳を奨励するキリスト教の方が、識字率が向上し、「救い」にも理知的なものを求めるようになった人々の欲求により的確に応え、これが更なる識字率・知的水準の向上につながるという好循環をもたらしているからだ、というのです。(なお、コラム#87で第三世界にイスラム教が普及した理由について私見を述べているので参照してください。)

 ここで、キリスト教が原理主義化しつつあるということの意味をもう少し補足しておきましょう。
 最初に、聖書を読んだことのない読者や読んだことはあるけれど内容を忘れてしまった読者のための私による蛇足ですが、新約聖書にはイエスが病人や非健常者を奇跡を起こして(悪霊払いで、と言い換えてもよろしい)治癒する話が次々に出てきます。熱病等の治癒(マタイによる福音書8-14~17)、中風の治癒(同9-6~7)、盲人の治癒(同9-27~30)、おしの治癒(同9-32~33)、てんかんの治癒(17-13~18)等々です。また、貧困(空腹)の解消については、イエスがパン五つと魚二匹を増やして五千人を満腹させた話等が出てきます(同14-16~22)。
 脱宗教的傾向の強い欧州や米国(のエリート)のキリスト教信徒の間では、こういった類の話は額面通り受け止めるべきではなく、比喩的に受け止めるべきであるという考え方がもっぱらであり、それにあきたらない人の中には科学的に説明しようとする学者さえ出てきています、例えば、病人の治癒について、最近米国で出された説は、イエスが患者への塗油の儀式の際に用いた油にインド麻(cannabis。その乾燥した花からマリファナ、ハシーシを採る)から抽出された成分を入れたことにより、プラシーボ効果とあいまってその患者の症状が緩和されたり病気が治癒されたのではないかというものです(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/health/2633187.stm。1月6日配信、1月9日アクセス)。
 また、欧州(とりわけイギリス)や米国(のエリート)のカトリック教徒の間では、米国のカトリック司教による一連の少年虐待(少年愛)事件を契機として、同性愛の罪悪視、神父の独身主義、女性の神父登用禁止、教会の運営への一般信徒の非関与、といったこれまでのカトリック教会の方針を転換するよう求める声があがっています。
 しかし、「南」のキリスト教信徒達の大部分は「奇跡」を否定するに等しい、上記の比喩説や科学的説明を頭から拒絶していますし、カトリック教会(教皇庁)は既に「南」の影響下にあるとされており、上記のカトリック教会改革論をアングロサクソンだけに見られる極端な声として無視する一方、むしろ教会の伝統的規律や価値観の復興を図る必要があるという構えです(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/europe/2639413.stm。1月8日アクセス)。
 キリスト教が原理主義化しつつあるというのは、こういうことなのです。

 以上のようなキリスト教信徒の増加とあいまったキリスト教の変容は、いかなるインパクトを世界情勢に与えるのでしょうか。
 一つは、キリスト教信徒と他の宗教の信徒、とりわけイスラム教信徒との間での紛争の増大・先鋭化です。
 スーダンでは、北部のイスラム教信徒を中心とする政府と南部のアニミズム信徒ないしキリスト教信徒との間の紛争とこれに伴う飢饉によって、150万人が命を落としました(http://education.yahoo.com/reference/factbook/su/index.html。1月19日アクセス)し、ナイジェリアのキリスト教信徒とイスラム教信徒との争いでは100万人が死亡しました。フィリピンやインドネシアにおける両信徒間の争いもよく知られています。
 ナイジェリアにせよ、インドネシアにせよ、産油国でもあることから、こういった紛争に欧米や日本がもっと関心を持ってよいはずであるところ、両国とも中東ほど戦略的に重要な地域に位置していないため、強い関心を呼んではきませんでした。
しかしその中東においても、従来見られなかったような形で両信徒間の争いが起こり始めています。昨年11月にレバノンで一名のキリスト教伝道活動従事者が殺され、昨年末にはイエメンで三名が殺され一名が重傷を負うという事件が起こりました。この背景には、この10年間で、中東における米国系の伝道活動従事者の数が数百から2??3千人に増えていることがあげられます(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-mission1jan01,0,5407665.story?coll=la%2Dheadlines%2Dworld。1月1日アクセス)。
もう一つは、キリスト教内部の「南」「北」対立の顕在化です。
これがどのような経過をたどるのかは今後の問題ですが、米国内における被治者たる「南」と治者たる「北」の対立が顕在化し、「革命」が起こるといった可能性もまんざら絵空事ではないのかもしれません。

このように見てくると、世界で最も脱宗教化が進んでいると言ってもよい日本の役割にはきわめて大きいものがあります。
脱宗教化が必ずしも倫理や自己規律の荒廃をもたらすものではないことは、江戸時代の武士や町民の倫理観や自己規律の精神を思い起こすだけで明らかです。宗教を習俗化し、日常生活にアクセントをつけ、彩りを添えるという面・・例えば初詣、七五三、お伊勢まいり、等々・・でも日本は世界で先鞭をつけてきました。
ですから日本は自らを模範とし、アングロサクソンや欧州諸国と手を携えて、世界の宗教原理主義とたたかい、世界の人々を脱宗教化の方向に向けて先導する義務がある、と私は考えるのです。

(完)