太田述正コラム#5364(2012.3.17)
<鄭成功の台湾攻略>(2012.7.2公開)
1 始めに
 鄭成功(Zheng Chenggong)は、近松門左衛門の『国姓爺合戦』等を通じて、日本でよく知られている人物ですが、鄭の日本語ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F
があげる日本人による文献は、2004年のものが一番新しい・・しかも、日本人ないし日本語以外によるものとして唯一あげられているのは、支那人とおぼしき著者によるドイツで2008年に出版された英語本1件のみ・・のに、英語ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Koxinga
があげる文献は2004年以降のものも数多く、また、いつものことながら、質量ともに内容は後者が前者を圧倒しています。
 さて、トニオ・アンドレード(Tonio Andrade)が、彼が2011年に上梓したばかりの、 ‘How Taiwan Became Chinese and Lost Colony: The Untold Story of Europe’s First War with China’ について、アジアタイムスのインタビューを受けていたので、そのインタビュー記事
http://www.atimes.com/atimes/China/NC16Ad03.html
(3月16日アクセス)のさわりをご紹介し、私のコメントを付けることにしました。
 なお、アンドレードは、イリノイ大(Urbana-Champaign校)修士、エール大修士・博士で、現在米エモリー(Emory)大学の歴史学准教授です。
 (上記記事及び下掲による。
http://history.emory.edu/home/people/faculty/andrade.html )
2 第一次支那・欧州戦争の勝利者たる鄭成功
 「・・・鄭成功(Zheng Chenggong=国姓爺(Koxinga)<(注1)>)は、欧州の最も活動的な(dynamic)植民地勢力たるオランダ東インド会社を打ち破った。・・・
 (注1)1624~62年。日本の平戸で生まれ、7歳の時に福建へ。「1644年、李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、・・・朱・・・は隆武帝と呼ばれる。・・・<鄭成功は、元の名を鄭森と言ったが、>ある日・・・父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は・・・鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとは<しなかっ>・・・たが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F
 支那人達は、勇敢、無私、かつ<明に>忠実に<オランダや清といった>外国人達に抵抗し、支那人の明王朝を再興しようと願ったところの、この国民的英雄を歓呼の声で称えている。
 しかし、彼は日本で生まれ育ち、恐らくは日本語を第一言語としてしゃべった人物だ。
 彼の父親・・支那人海賊・・は、彼が生まれた時にその場にはいなかった。・・・
 国姓爺は、彼の父親の帝国を継承し、自分の日本人的出自によって鼓吹されつつ、地球上で最も強力な軍の一つとの戦いの資金をこの帝国から捻出した。
 いくつかの部隊は、日本の武士の面を付け、日本の武士の刀を用いた。
 彼は、優れた(effective)司令官であり、全支那奪取を目指していた新しい王朝、清(1644~1911年)、の建国者たる強い満州族と、支那沿岸を北上したり南下したりして戦った。・・・
 彼の、オランダ人たる仇敵ないし諸敵のチーム・・・<を率いたの>は、癇癪持ちのフレデリック・コイエット(Frederick Coyet)<(注2)>台湾総督だった。
 (注2)1615?~87年。オランダ系スウェーデン人。日本の長崎の出島(1639~60年)でオランダ東インド会社代表(VOC Opperhoofden in Japan)を務めた(1647~48年、52~53年)。台湾総督:1656~62年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Coyett
http://en.wikipedia.org/wiki/VOC_Opperhoofden_in_Japan
 
 コイエットは、彼の部下達とも上司達とも苛烈な軋轢が絶えない男だった。
 全般的に、支那人達は、頭脳でも戦闘力でも下回っていたオランダ人達を凌駕していた。・・・
 オランダ人達は、台湾に1624年移住し、原住民たる首狩り族達の狩猟場を奪い取って水田と砂糖プランテーションをつくらせるために支那人の植民者達を招いた。
 オランダ人達は、この植民者達に課税し、彼らに対する若干の虐待や相互不信はあったものの、双方が裨益した。
 しかし、1661年に、国姓爺は、満州族の清・・・と戦うための基地として台湾を欲した。
 清は、彼の支那本土の諸基地を次第に浸食してきた。
 そこで、彼は、1400年代初期の鄭和(Zheng He)の有名な累次の航海以来の最大の支那外洋艦隊でもって台湾に侵攻した。・・・
 国姓爺は、現在の台南市付近にあったオランダの主要防御陣地を通りぬけ、ほとんど使われていなかった「鹿耳(Dear’s Ear)」海峡を通って台湾入りを果たした。
 この海峡は、普段は大きな外洋艦艇には浅すぎるところだったが、国姓爺は大潮の時に合わせてそこに近づいたため、オランダの大砲群はあらぬ方角に向けられていて、オランダの斥候達は、数百隻の支那艦艇群が安全にその部隊を上陸させるのを眺めるしかなかった。
 彼らは、すばやくオランダの大部分の陣地を落とした。
 数日のうちに、オランダの、攻撃に耐えられる防御陣地は、最も主要で強力な、ゼーランディア城(Zeelandia Castle)と呼ばれた要塞だけになった。・・・
 支那人達は、オランダ人達に対し、リーダーシップ、練度(drill)、そして大砲において優っていた。
 しかし、オランダ人達には二つの大きな優位があった・・・。
 第一は、オランダの船は、深海での戦闘において、支那の艦艇よりも圧倒的に優れていた。
 ・・・オランダの各船は、1隻で20隻内外の支那の艦艇を相手にすることができた。
 とはいえ、支那の司令官達は、より優れたリーダーシップでもってしばしば<海戦でも>勝利を収めた。
 支那の艦艇が、風上に対して、あるいは風の中に向かって航海することはできなかったことと、オランダ人達が、敵に接近した場合の航海術にはるかに長けていたことは、オランダ人達を何度も助けた。・・・
 ・・・オランダ人達の第二の優位・・・は、欧州の砲撃要塞の設計思想がルネッサンス期に発展し、それが欧州大陸中に普及していたことだ。
 それは、大砲を格納しているところの、大きな、突き出した四隅の稜堡を持っており、大砲をほとんど全方位に向けて発射できた。
 だから、城塞(fort)は襲撃することがほとんど不可能なのであり、ゼーランディアはその一つだったのだ。
 国姓爺は、何度か窮地に立たされたが、それは彼にとって意外なことだった。
 というのも、ゼーランディアは、彼が攻略しなければならなかった支那の城壁都市の大部分よりも格段に小さかったからだ。
 <ゼーランディアから発射された>オランダの致死的な大砲の弾丸は、彼の強力な軍を木端微塵にした。
 <しかし、>酔っぱらいのハンス・ラディジ(Hans Radij)なる高位の司令官が離脱したことにも助けられて、彼は、9か月後に、ついに<コイエットに>降伏を強いることができたのだ。・・・
3 支那軍事史による世界軍事史見直しの動き
 <火薬は支那起源であること等に言及しつつ、>支那の歴史家のスン・ライチェン(Sun Laichen)<(注3)>は、説得力ある形で、軍事革命は全球的プロセスと見るべきであって、それが始まったのは、欧州ではなく支那においてであり、1300年代中頃の明以前の諸戦争の間においてである、と主張した。
 (注3)北京大修士、北イリノイ大学修士、ミシガン大学博士。米フラートン(Fullerton)単科大学歴史学科准教授。
http://hss.fullerton.edu/history/facultypage/lsun.asp
 ピーター・ロージュ(Peter Lorge)<(注4)>やケネス・スウォープ(Kenneth Swope)<(注5)>といった他の歴史家達は、爾来、この考え方に立脚している。・・・」
 (注4)米ヴァンダービルト大学(Vanderbilt University)東アジア研究助教。著作多数。(新しいものから、Chinese Martial Arts: From Antiquity to the Twenty-First Century、The Asian Military Revolution: From Gunpowder to the Bomb(以上、ケンブリッジ大学出版会)、War, Politics and Society in Early Modern China (Routledge))
http://www.vanderbilt.edu/historydept/lorge.html
 (注5)米ボール・ステート大学(Ball State University)歴史学准教授。文禄・慶長の役についての著作(A Dragon’s Head & A Serpent’s Tail: Ming China and the First Great East Asian War, 1592-1598, and Warfare in China Since 1600)あり。
http://cms.bsu.edu/Academics/CollegesandDepartments/History/FacultyandStaff/SwopeKenneth.aspx
4 終わりに
 3で紹介した説が仮に正しいとすると、支那で始まった軍事革命は、わずか200年余で西回りに世界を一周し、日本の武士道に取り入れられ、それが更に西回りに、慶長・文禄の役等を通じて軍事革命の発祥地の支那にインパクトを与える至っていた、ということになりそうです。
 いずれにせよ、私は、慶長・文禄の役自体を、豊臣秀吉によるところの、対欧州(カトリシズム)戦争構想の一環たるその予備戦争である、と見ている(コラム#4507)ところ、鄭成功の台湾攻略(=オランダとの戦争。1661~62年)は、日本と米英支蘭(ABCD)が戦った先の大戦(大東亜戦争)の前哨戦であった、と見ることもできるのではないか、と思います。
 当時の(反カトリシズムの)オランダは、同国が1668年にイギリス(及びスウェーデン)と同盟関係に入り、1672年にイギリスのチャールス1世の孫のウィレム(ウィリアム)がオランダ総督に就任し、1689年に彼がイギリスのウィリアム3世となり、オランダがイギリスと1702年まで同君連合となる、という一連の動きの直前であった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A03%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
ことを想起してください。
 また、鄭成功は、精神的には、武士道を身に付けた日本人であった(コラム#5362)ことも想起してください。