太田述正コラム#0098(2003.2.9)
<「英雄」の運命>

1 中国における岳飛 

 12世紀、宋(Song)の武将の岳飛(Yue Fei。1103-1141)は、当時祖国宋を北から脅かしていた女真族(Jurchen tribe)の金(Jin)を、韓世忠らの諸将とともに一旦撃退した中国史上の英雄(ただし、金との和議を図った宰相秦檜(しんかい。Qin Gui)によって謀反の罪を着せられ、拷問を受けた上刑死した)であり、中国共産党が政権をとった後も、中国ナショナリズムを象徴する人物として、英雄視されてきました。(岳飛については、http://www1.interq.or.jp/~t-shiro/data/human/gakuhi.html(2月2日アクセス)、http://azumaya.kobe-du.ac.jp/~mozuku/china/mei/me_001.htm(2月8日アクセス)を参照。)
 しかし、女真族は後に清帝国を築くことになる民族であり、しょせんこれは宋と金という大中国圏内のコップの中の争いの一コマではないかとして、中国教育部(文部省)はこれまでの岳飛に対する評価を改め、英雄リストからはずす決定を下しました。
 (なお、同じ時に文天祥(Wen Tianxiang。1236-1282)も英雄リストからはずされました。文天祥は13世紀、金を滅ぼし宋に侵攻してきた元に対し、張世傑らとともに徹底抗戦したのですが、元にとらえられ、彼の人物を見込んだ元の皇帝フビライに臣下になるよう累次にわたって要請されたもののこれを三年間にわたって拒否し続け、ついに処刑された宋の宰相。その生き様は、彼が獄中で作詩した「正気歌(せいきのうた)」等を通して、後に幕末期の日本の藤田東湖や橋本左内に大きな影響を与えました。)(文天祥については、http://homepage2.nifty.com/ica16319/buntensyo.html(2月8日アクセス)、http://www.gunma.med.or.jp/ota/henkan/bibouroku/seiki/(同)、http://kumasan1127.cool.ne.jp/kuma/kirameki/land-story/ls-06.htm(同)を参照。)

 中国共産党政権はかねてより公式に認知されている55の少数民族と漢民族との融和政策を推進してきていることから、岳飛の再評価は遅きに失したと言えるかもしれません。
 しかし、良心的な学者の中からは、宋の当時には女真族(やモンゴル族)等を包摂した中国人意識は存在しなかったとして、これに反発する声が出ています。
 しかも、岳飛を陥れて投獄、殺害した秦檜が漢奸として軽蔑され、その名が練り粉スナックにつけられ毎日油であげられ(=刑罰に処せられ)、朝食に供せられていることが示すように、漢民族の一般大衆の間では岳飛は依然人気が高く、このような政府による再評価が定着するかどうかは不明です。
 (最近の中国での動きについては、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-hero28jan28,0,6720581.story?coll=la%2Dheadlines%2Dworld(1月28日アクセス)によった。)

 それにしても、日本における幕末期の「尊皇攘夷」論の隆盛(=明治維新をもたらした)やその後漢民族の唱えた「滅満興漢」論へのシンパシー(=20世紀の日中関係を良かれ悪しかれ規定した)と、岳飛(や文天祥)の生き様が日本人に与えた影響とが切っても切り離せない関係にあったことを思い起こせば、日本の代表的な中国史家達が、岳飛について、「・・南宋政府が抗州・・を都として諸般の組織立て直しを進捗させるにつれて、これに呼応するように反撃態勢が整ってくる。名臣張浚は四川をよく保全し、韓世忠・岳飛・劉光世・張俊らの武将は河南回復をめざして江北に戦果を挙げ始めた」(愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談
社学術文庫、1998年、38-39頁)と、書き飛ばしているのは一体どういう了見なのだ、と言いたくなります。(同書126-127頁における文天祥の記述についても同じことが言えます。)

2 韓国における金日成
 韓国では、金大中大統領による対北朝鮮太陽政策の推進、とりわけ南北首脳会談の実現以降、北朝鮮に対する認識が大きく変わり、法律によるしばりがなくなったこととあいまって、金日成に対する評価もかつての「悪魔、ならず者にしてペテン師」から「反日闘争の英雄」へと様変わりしつつあり、この新しい評価に即した国定教科書がいくつか出現するに至っています。金日成は、満州における対日ゲリラ闘争のリーダーであり、朝鮮領内のポチョンボの交番や役場に対する1937年の襲撃等を行ったというわけです。
http://www.nytimes.com/2003/02/03/international/asia/03KORE.html。2月3日アクセス)

 しかし史実は、1997年の6月から7月にかけて二回に分けて放映されたロシアのTVドキュメンタリー(第一回「赤い君主、金の話」、第二回「赤い皇太子・王座の後継者」)が、旧ソ連の資料等から明らかにしたように、対日ゲリラ闘争なるものは単にこぜりあいに毛が生えた程度のものであったところ、その「ゲリラ闘争」で周辺的な役割しか果たしていなかった金ソンジュなる人物が、日満の軍・治安当局によって「ゲリラ闘争」が壊滅させられたため、旧ソ連領に逃げ込んでいたところ、日本の敗戦後、「ゲリラ闘争」の伝説的リーダーであった「金日成」と自称した上、スターリンによって北朝鮮の指導者に「任命」されたということのようです。(また金正日は、父親が旧ソ連亡命中、1942年に北朝鮮の白頭山ならぬハバロフスクで生まれたようです。)(2月7日のフジテレビの朝の番組「とくダネ!」より孫引き)
 そうだとすると、上記のような韓国の新しい教科書の記述は、いささか行き過ぎであるように思われます。現在、韓国で反米感情が燃えさかっていること(コラム#80参照)も、同じ文脈で理解すべきでしょう。
 いずれにせよ、これは日本自身の歴史でもあり、今後の対北朝鮮・対韓国関係にも関わることから、日本の歴史学者による史実の検証が待たれるところです。

3 ボスニアにおけるガブリロ・プリンシップ
 ガブリロ・プリンシップ(Gavrilo Princip)と言っても初耳の人が多いと思いますが、1914年6月28日に当時オーストリア帝国領であったボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、オーストリアのフェルディナンド皇太子夫妻を狙撃して二人を殺害し、第一次世界大戦の引き金を引いたボスニア西部出身の19歳の「一人のセルビア人青年」の名前です。
 彼は、第二次世界大戦後に成立したユーゴスラビア連邦のチトー大統領によって国民的英雄とされ、狙撃現場には彼を讃える博物館が設置されました。
 ところが、ユーゴスラビア連邦の解体過程においてボスニアでの支配権をめぐってモスレム人(イスラム教徒)、セルビア人、クロアチア人が三つどもえで争った1990年代の凄惨極まるボスニア戦争の際、この博物館は、モスレム人が多数を占めるサラエボをめぐるモスレム人とセルビア人との攻防戦の渦中、灰燼に帰してしまいます。破壊したのはプリンシップを単なる犯罪者とするモスレム人達だったのですが、皮肉なことにセルビア人による郊外からのサラエボ盲爆もこの破壊に一役かったとされます。
 最近になってようやくこの博物館が再建される運びになったのですが、プリンシップを依然英雄視するセルビア人と犯罪者とするモスレム人の対立の下、たんたんと歴史的事実を展示する博物館になる予定だといいます。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/2736275.stm。2月8日アクセス。)

4 感想

 民族概念が「拡大」したことによって英雄から引きずりおろされた岳飛(や文天祥)のケースとは逆に、プリンシップのケースは、民族概念の「縮小」によってかつての英雄がもはや英雄ではなくなったケースであると言えるでしょう。
 金日成のケースを合わせて考えれば、およそ歴史認識というものは、確固とした自分自身の視座を持ち、(いかなる視座も偏りがあることを自覚・自戒しつつ、)史実を徹底的に究明し、その史実を当時の歴史的文脈の中で評価した上で構築すべきである、ということになりそうです。
 日本人の我々にとっては20世紀前半の日本の歴史をどのように認識すべきかがきわめて重要だと思いますが、読むに値する歴史書がいまだ出現していないのは残念なことです。