太田述正コラム#0101(2003.2.26)
<北京報告(その1)>

1 始めに

2月20日(夜着)から24日(朝発)までの実質三日間の日程で北京を訪れ、中国海軍副参謀長、全国台湾研究会副会長、中国国際交流協会理事、中国国際友好連絡会理事、中華日本学会副会長、中国新聞社評論センター副秘書長、北京高峰総合研究所総合研究部長、天津東北アジア研究所副研究員等と意見交換してきました。
 今年は昨年以上に予定がはっきりせず、翌日に果たして誰に会えるのかしらとはらはらどきどきの毎日でした。
 というのは(昨年同様、私の航空運賃とホテル宿泊費を負担し、かつ私に同行してくれた)日本人日中友好人士のS氏は北京についてから、自分だけで会いたい人と私にも会わせたい人に適宜アポイントをとるというやり方をしており、他方、中国側の窓口役の国際交流協会理事のR氏の方でも、S氏とは余り連絡をとらないまま、私に関する大まかなスケジュールを立て、後は我々が到着してから細部をつめるというやり方をしているからです。
昨年はそれでも比較的スムースにことが進行したのですが、今度はそうは問屋が卸しませんでした。R氏が私の「案内役」を漠然とした形で二つの機関に割り振ったからです。

2 二組の「案内役」

 20日、21日と我々のホテルの同じフロアに宿泊していた天津(東アジア研究所)からの主張組の二人連れが私の案内役だと分かったのは22日(土)の朝でした。21日の朝食をともにしたものの、相手が何も言わないため、彼らを置いてきぼりにして昼と夜の日程をこなし、深夜再び彼らと一杯やりました。彼らはこの間、昨夜、S氏が手交した拙著「防衛庁再生宣言」を一生懸命読んだと言っていました。翌22日、再び朝食をともにした際、私が歴史博物館に行ってみると言うと、ご案内しますと言い出しました。その後昼食もご一緒したいと言うのです。そこで、S氏と別れて彼らの好意に甘えることにしました。
歴史博物館は、予想に反し、モノだけの展示であり、ため息が出るほど可愛い西域の幼児のミイラ以外には余り感銘を受けませんでした。日本の上野の国立博物館が面白くないのと同じです。
そして、タイトミニスカートを身につけた美人ウェートレスがずらりと並んだ店で、洗練された広東料理の昼食に舌鼓を打った後、ホテルまで送ってもらったところ、今度はホテルの地下のサウナに入りませんかと言い出すので、疲れがとれるかもしれないとつきあってみると、更に別室でタイ式マッサージをやってみましょうと言われ、これにも軽い気持ちで頷いたところ、若い女性のマッサージ師に一時間半にも及ぶ組んずほぐれつ(誤解なきよう!)のマッサージを受ける羽目になりました。(この日、これでようやくフリーになった私は一人で京劇鑑賞に行くのですが、その話は次回。)
 翌23日(日)、たまたままだホテルにいたS氏と私のところにR氏から電話があり、北京高峰総合研究所の人と連絡がついたので、昼飯を一緒にどうだと誘われました。私から、実は一人で軍事博物館に行ってみるつもりなのだがと言うと、その博物館は午前中は早く閉まってしまうので、昼食が終わってから研究所の人に案内してもらって行ったらどうだと言うのです。
 そこで、私も午前中やることがなくなったので、S氏と一緒にR氏ご推奨の眼鏡屋に行ってみました。中国では日本製の眼鏡が定評があるのですね。日中合弁の会社で「メガネの愛眼」という店でした。(看板に「メガネの」と日本語で書いてありました。)S氏は買い換えるつもりで行ったのですが、店員の女性は修理を勧め、安上がりで済みました。こういった対応ぶりも日本流だなと感心させられました。
 これから先が大変なことになりました。R氏に教えられていたレストランの名前をタクシーの運転手に告げたところ、実は歩いても行ける目と鼻の先にそのレストランの一番有名な分店があったのですが、わざと遠い分店に連れて行かれたのです。そこで待てどくらせどR氏達が現れません。ホテルに電話してみると案の定伝言が入っており、場所が違っていて有名な分店の方であることがはっきりしました。そこで、再度タクシーを拾って、今度はきちんと有名な分店の場所を告げたのですが、今度も違う第三の分店に連れて行かれてしまい、仕方なくその店の協力を得ながらまたまたタクシーを拾い、結局二時間半遅れで目的地に着きました。(このレストランの店は北京だけで24もあることが後で分かりました。)ひどい目にあったけれど、だまされる方が悪いということなのでしょう。(昨年の訪中時にも似たような経験をしています。)
大幅に遅れた昼食でしたが、モンゴル料理の羊のしゃぶしゃぶをごちそうになりました。7??8年前の初訪中の時にも同じ場所で同じ料理を食べた記憶があり、北京名物の一つですが、それほどおいしいものではありません。(おいしければ、東京でも食べられるはずですが、聞いたことがありません。蛇足ながら、私の知っている限り、東京にはイギリス料理の店は確か二軒しかありません。)
時間切れで軍事博物館訪問はとりやめ、S氏の設営した場所で、S氏の招待した日中友好人士達との早めの宴会に臨みました。
それから、その後で再び昼食をともにした高峰総合研究所の男女二人とR氏とコーヒーを飲みながら懇談をし、研究所総合研究部長の自家用車(フォルクスワーゲン)でホテルに送ってもらいました。

こういうわけで、二組計4名の「案内役」はまことにご苦労なことでした。

3 周さんとの再会

 中国海軍副参謀長の周(Zhou)少将(もともとは陸軍の軍人で、香港返還前後に香港派遣軍副司令官をつとめた)に会えるかどうかも分からなかったのですが、21日(金)の夜、S氏ともども豪華な北京ダックの夕食に招いてくれました。彼とは英国国防省の大学校の同期生(1988年組)であり、当時家族ぐるみのおつきあいをしていたのですが、奥さんにも会え、懐旧談等に花が咲きました。
現役の軍人が、しかも夫人を交えて外国人に会ってくれるのはめずらしいことのようです。
 もっとも、周夫妻のほかに(車で我々二名をホテルに迎えに来てくれた)「部下」二名が同席しており、全員平服のノーネクタイ姿であったとはいえ、フォーマルな雰囲気がしました。
 「式次第」もしっかりしたもので、最初に次の間のソファーにまず双方が並んで腰掛け、プレゼントの交換を行いました。当然、写真撮影付きです。(私からは、日本茶と拙著数冊を贈呈しましたが、奥さんにまで会えるとは思っておらず、ホテルを出るときにSさんがホテル従業員等の女の子用に持参した日本の民芸品を奥さん用に「供出」してもらいました。)
 それにしても、ガードの堅さは相当なものです。周さんに私が「君の所掌は何だ?」と聞いてもにやにやするだけで教えてくれないので、「海軍の副参謀長は何人いるんだ?」という次の質問を飲み込んでしまいました。ですから、台湾海峡をめぐる中台の軍事バランスなどといった深刻な話は、一切出ずじまいでした。
                               (続く)

http://j.peopledaily.com.cn/2003/02/28/jp20030228_26502.html。3月1日アクセス。